狭苦しい部屋の中にアルコールの匂いが満ちていることを、彼は快く思わないようだった。彼とは、ドアをくぐるとすぐに微かに眉をひそめて、小さく溜息をついた刹那・F・セイエイのこと。すらりとした体つきが目を惹く、印象的な赤い双眸を持つ青年だ。彼はいつも、何をしても美しかった。美しいという言葉が男にも当てはまるほどの適応性を持つのだと言うことを、彼に出会って初めて私は知ったのだ。それは、彼に出会って愛されたことほどではないが、それでも十分に幸運なことで知る価値のあるものであった。私が床に座り込んで酒と自身の幸運に酔いしれていると、彼は私の前に立ってこう言った。

「ここは俺の部屋だ」
「そうね」

呆れたような声に、私は何度か頷きながら短く返す。それから何とはなしに差し向けた私の視線は、恐ろしいほど真っ直ぐな彼の双眸によってすぐにがんじがらめにされてしまった。初めて出会った、その瞬間、その一秒に、憶えた感情が堰を切ったように溢れ出す。鮮やかに、麗しく、婉然と、それは私の中を闊歩する。胸の高まりが抑えられない。私は時々、自分は目の前の美しい男に毎日新たに恋をしているのではないかと思った。それくらい、彼を見る度に私の心は純情な乙女のようにときめいた。どきどきと心臓が暴れ出して、甘酸っぱい感覚が胸を詰まらせる。それは喉の奥がかゆいような、そんなような感覚でもある。私は喉をかきむしりたい気持ちを抑えて刹那の赤い両目に向き合った。彼の視線を逃したくない、と思ったのだ。なぜなら、私はこれが何かを知っている。これは恋である。奪われてはならない愛である。

「あたしのこと、すき?」
?...酔っているのか」
「酔ってない、刹那、あたしを見て」
「見ている」
「大晦日で確かに少し多く飲んだけど、酔ってないわ。....ね?」

いつも、こうしてじっとお互いにお互いを見詰め合っている間に、私と刹那との距離は縮まった。気が付けば近付いている夕日と地平線のように、或いは、浸かっている間に狭まる湯と体温の差のように、それは極々自然なことであった。刹那の優しい匂いが肌をくすぐる。穏やかな瞳が声を奪う。私は思わず、思考も夢も未来も何もかもをすべて投げ出して、彼に溶け込んでしまいたいと思った。どれほど長くこの愛が続くよりも、彼の中に潜んでいられることのほうがずっとずっと幸せなことのように感じられたのだ。死は時にどんな偉大な愛をも凌駕し、感情は時にどんな強靭な理性をも凌駕するという。ならばこれがその瞬間なのだろうか。私はいますべてをかなぐり捨てて、私自身を棄てて、彼の中にだけ生きていたいと強く思っている。一番幸せなところで時間を止めてしまいたいと思っている。しかし、やはりどんなに思ってもそんなことはできやしない。言えもしない。わかっていたことだ。私などではそんな大層な現象は起こせない。それだけではない。これは、彼が、或いは彼の持つ美しさが原因などではないことも分かっていた。私が、或いは私の持つ弱さがそうさせるのだ。私は私の前に片膝をついて屈んだ刹那にもう一度問いかけた。少しばかり声が掠れたのは決して酒のせいではなかったが、わざわざ本当のことを言う必要もなかったので、私は黙ってそれを酒のせいにすることにした。黒い髪の合間に見える双眸を、見つめて瞬きを一つする。苦労して得たものが気付かぬうちにするりと抜け落ちてしまいそうで、恐ろしくて恐ろしくて仕方がない。愛とはみなこうも不安定なものなのだろうか。そうだとすれば、人間という生物の最大の弱点は愛だ。何億年生きようと、きっと私たちはこの感情から逃げ得る手段を知ることはない。

「刹那」
「なんだ」
「あたしのこと、すき?」

聞きながら、知らない間に私の腕が彼の腕を捉えていた。微かに、部屋の隅で時計の針が動く音がする。一体今は何時なのだろうかと思ったが、私にはそれを確認することは難しかった。時計を見るためには、刹那から目を離さなければならなかったのだ。まだ日付は変わっていないだろう。しかし、変わるまでそう長くもかからないはずだ。もうすぐ、世界は私と刹那が初めて出会った時から5年目の一瞬を迎える。それは、早い早い百年のようであったが、長い長い一瞬のようでもあった。箸でつつき回された鍋のように色んな事が入り乱れて冷めていった年月。ふと、刹那が口を開く。再び視線が交わる。息が、詰まった。

「ああ。」
「ああ、って、刹那」
「なぜ驚く?」
「だって、今まで何度聞いても一度もそんなこと」
「今そう気付いた」
「は?」
「冗談だ」

ふ、と微かに笑みを浮かべて、刹那は私に捉えられた腕をそっと動かす。それに気付いて、私は驚きを拭い去れないまま彼の腕を自由にしてやった。彼の方こそ、酔っているのではないかと思ったが、どこにもそんな気配はない。恐らく、早い早い百年のようで、長い長い一瞬のようでもあった5年という複雑な時間が、彼に様々なものを与えたのだろう。初めて、まともに見る刹那の笑みに、釣られて笑う。気管を焦がすような熱がじりじりと胸の辺りにまで落ちる。鼻腔の奥がつんとして、私は急いで気持ちを落ち着けようとした。胸が詰まると、どうして涙が出そうになるのだろうか。二度の瞬きと三度の呼吸をして私が刹那を見つめなおす頃には、彼はもう立ち上がっていて、そうしてそろそろ寝ようと穏やかに言った。

「本気?今日は大晦日なのよ?」
「いつ敵襲があるか分からない状態で遊んでいる余裕はない」
「でも」
「なんだ、

少し苛立った様子の刹那の声に、私は一瞬怯んだ。しかし、生憎とそこで引き下がるような臆病さは生まれてこの方持ち合わせたことがない私は、そのままベッドの上に横になった彼の上に飛び乗る。ぎし、とベッドのスプリングが軋む。心底迷惑そうに顔を顰めた刹那がじろりとこちらを見上げた。私は至極にやけた顔で、悪戯を企む子供のように刹那の赤い双眸を覗き込む。

「いいでしょ?」
「何が」
「飲まないなら、愛してよ」
「は?」
「この世界のどんな女の子が愛されるより先にあたしを愛して」
「...」
「刹..」

様子を窺うために呼びかけた名前が奪われて、私は突然のことに思わず少しばかり身を引いた。しかし、ぐいと強い力で私の腕を引く刹那の腕が私を彼の上に連れ戻す。その眼はこんな時だというのにおどけた様子の欠片もなくて、ただただ酷く真摯なそれであった。カチ、カチ、と時計の音は相も変わらず規則正しく時を刻んでいる。彼の息が私の肌の上を滑る。冷えた肌にそれは熱くて、背筋がぞくりとする。ふと思い出して私は時計を見遣った。二本の針が重なって見える。それが嬉しくて、私は思わず刹那の額にキスをした。ああ、こうしてまた、私たちの新しい一瞬が愛で染められていくのだ。







次の365日も愛おしい
011609