どうしよう、とわたしは丁寧に一度、盛大な溜息をついた。ふ、っと視線を目の前のオレンジジュースに落として、もう一度。片手に軽く顔をうずめて、さらにもう一度。恐らく、周囲から見たら今のわたしは首を切られた派遣社員か、借金地獄に陥っているニートか、婚約者に式の一週間前に逃げられた花嫁のなり損ないに見えるだろう。もちろん、実際はそのどれでもないのだけれど、そんなことを言っても赤の他人にはわたしの真実を知る由などない。それなのに先ほどから道行く人々の視線を痛いほど感じるのは、つまりそんな鬱気味の女がひとりで洒落たカフェのテラスにいるからなんだろう。いいではないですか、どんな人間がどんな場所で何をしていたって。わたしは胸中でだけその威張った一言を目一杯広げて、待ち人を待ちながらオレンジジュースに刺さったか細いストローに噛みついた。少しずつ減っていく可愛らしいオレンジ色の液体を湛えたコップに、先ほど貰ったレシートが押しつぶされている。見れば、濡れて潰されたその無惨なレシートには、オレンジ、1、と書いてある。普段コーヒーしか飲まないわたしはその見慣れない文字をまじまじと見つめた。妊娠すると酸っぱいものが食べたくなる、だなんてあまりにも有名すぎて嘘だと思っていたわたしは、コーヒーは良くないだろうから、と迷わずオレンジジュースを頼んだ自分に今更ながら驚いた。不意に微かな音を立てたコップにはっとして視線をやれば、先ほどまでのオレンジの液体は氷と氷の間に挟まっているくらいでもうほとんど残っていない。もう少し、注意して飲むべきだった。わたしは少し残念な気持ちで、このカフェに来て四度目の溜息をつきながら辺りを見回した。すると、すぐ傍で聞きなれた足音が止む。どくん、と心臓が鈍く跳ねたことにさらに驚きながら、わたしはそっとテーブルの傍で立ち止まった人物を粛々と見上げた。彼こそが、わたしの盛大なる溜息の、そうして多くの人々のわたしに対する誤解の原因なのだ。


「刹那」
「帰るぞ」
「うん」
「...オレンジジュース?」

荷物を持って立ち上がっている間に聞こえてきた声に、わたしの心臓は再び跳ね上がった。しかし、すぐに「たまにはね」といつもの調子で切り返す。自分の職業以外の事にはあんまり興味のない彼が知っているはずはない。そのたったひとつの自信だけが今のわたしのすべての表情を動かしていた。とはいえ、それはあくまで外面の話だ。ああ、やばい、ああ、やばい。そんなアホみたいなことを馬鹿みたいに繰り返すことしか出来ないチキンハートまでは、さすがにとてもカバーしきれていないのだが、まあ誰にも見えていないのでいいことにする。それより、何か話題を探さなければ。

「思ったより遅かったね」
「ああ」
「何かあったの」
「急だが空に戻ることになった」
「嘘」
「嘘じゃない」

あまりに不自然な返答だったのだろう、刹那が訝しんでわたしの顔を見る。綺麗な赤い双眸がじっと何かを探るように視線を寄越してきて、わたしは先ほど初めてお世話になった医者の顔を思い出した。空に戻るだなんて死んでも出来ない。いや、死ぬ気になったら出来るのか?わからない。わたしにならできるかもしれない。だがしかし宇宙で出産なんてかっこいいことは恐らくかっこいい響きなだけで実際はありえない無茶だろうし、そもそもわざわざ戦争区域に飛び込んでいって出産とか、「出産なめんじゃねー!」の罵声とともに全国の妊婦さんに張り倒されたいと言っているようなものだ。無理だ、無茶だ、とわたしは簡潔に結論付けた。そうして、ひとつ増えた問題に溜息をつきながら刹那を見上げると、一言も言わずに黙ったままだった刹那の双眸と出会う。きっとわたしが悶々と考え込んでいる間、ずっとそうしていたのだろう。刹那はそういう男だ。聞きたいことがあっても、言いたいことがあっても、必ず一度それを殺そうとする。彼を置いておけない。わたしは刹那を見つめながらそう思った。愛しい気持ちが体の中で渦巻いている。離れたくない。離れたく、ないよ。でも、わたしの体の中には守らなくちゃならないものがあるから、そんなわがままは言えない。ふと、生まれて初めて、刹那の気持ちがわかった気がした。

「刹那、あたし妊娠してるの」

自分で言うと決めたこととはいえ、わたしはその言葉の重さに思わず眩暈がしそうになる。

「だから、空には戻れない」

ごめん、と一言、そっと付け加えるように謝罪して視線を落とすと何だか視界が不明瞭で、ああしまったやってしまったとわたしは視線を落としたことを酷く後悔した。ぽた、と涙が地面に落ちる。哀しいわけではない。苦しいわけでも、辛いわけでもない。それなのに次々と涙が落ちていくのを、わたしはどこか不思議な気持ちで眺めていた。これはだれのなみだなんだろう。胸がとてもくるしい、締め付けられるみたいにせつないよ。わたし一体、どう、しちゃったんだろう。一生懸命に声を殺していたわたしに、刹那の腕がそうっと伸びてくる。そうしてその指先がわたしの腕に触れて、何度か撫でるように上下する。もしかして、泣きやませようとしているんだろうか。そう思ってわたしは鼻をすすって深呼吸をして顔をあげて、刹那を見た。しかし、彼が呟いたのは予想したような言葉でも、まして期待したような優しい言葉でも、本に載るような感動的な言葉でもない。ただ一言、

「そうか」

と言っただけ。それでも、刹那のそんな言葉を聞きながら、わたしは今度こそ声をあげて泣いた。目の前にいる刹那がとても微かだけれどとても愛しそうな表情をしていることを、わたしはきっとずっと忘れられない。










ドルチェ・ヴィータ (ディ・マルツォ)

022409
(ここに来れたことが、とても嬉しくて)