酷く雨の降る一日だった。




雨の降る日は憂鬱になる。センチメンタルな気分にもなるし、どうしようもない寂しさにも襲われる。教室の中は暖かいのに、どうしてだか外の寒さのことばかりを考えて、一番後ろの窓際に座るわたしは教師の朗読する古典を聞きながら窓の外ばかりを見つめていた。ぱたぱたと曇ったガラスに雫が当たって落ちていく。雨は いったいどこから くるんだろう。どうして、こんなにも憂鬱だったりセンチメンタルだったり寂しかったりしているのに、わたしは虚しいと感じてしまうんだろう。こんなに鮮やかな感情なんて、他にはないのに。悲しかったり、寂しかったり、辛かったりする感情だけが、冷たく透き通っていて鮮やかに青くて美しいものなのに。一斉にページを捲る音がする。教師の声が慣れたように教科書の文字をなぞっていく。


「へ」

小さな、しかしはっきりとした声で呼ばれてはっと顔を向けると、前の席に座るハレルヤと目が合った。彼はあんまり素行が良くないことで有名なのに、いつでも女の子が憧れの視線を注ぐ不思議な男だった。彼の蜂蜜色の瞳がゆるゆると瞬きに隠れては睫毛の合間に顔を覗かせる。外は雨で薄暗いのに、わたしの中は青い感情で満ちているのに、彼の瞳の中はいつものように太陽が照りつけて金色に輝いていた。

「暇だな」

横に座ってわたしの机に頬杖をつきながら、ぼそりとハレルヤが言う。わたしは少しの間彼を見て、

「今何ページ?」

と聞いた。すると彼はすぐにわたしに視線を寄越して、

「知らね」

そう言って口端だけでにやりと笑う。授業中に暇だと言ってのけた男だ。訊いたところで答えなど得られないことは分かっていたはずなのに、どうしてわざわざ聞いてしまったんだろう。わたしは教師の朗読を頼りに何とかページを探り当てようと、教科書に視線を落とした。この人一人討ちたてまつたりとも、負くべき戦に勝つべきようもなし、また討ちたてまつらずとも勝つべき戦に負くることもよもあらじ。ここだ。わたしは文字を辿る指先を止める。するとハレルヤがすっと手を差し出したので、わたしは何事かと訝しんで彼を見上げた。

「シャーペン貸して」

至って普通に彼は言う。きらきらと、水の底で煌めくような金色がじっとわたしを見つめている。

「持ってないの?」
「出すのめんどい」
「どんだけよ」

呆れて溜息をつく。平生、わたしはほとほとこの男に呆れていた。授業はまともに聞かないし、喧嘩っ早いし、すぐに人のことをからかって遊びたがる。しょうもないやつだ。彼がわたしの教科書に何かを落書きし始めたことに気付いて、また一つ溜息が出たけれども、それ以上は何も言う気がなかったわたしはそのまま再び窓の外へと視線をやった。窓ガラスに落ちてくる雨粒の音は良く聞けばどれも微かに違っていて、丁寧に紡がれた音楽のようであった。相変わらずこの天気はわたしを憂鬱でセンチメンタルで寂しい気持ちにさせるけれども、何百年も昔の文字が朗々とした教師の声で息を吹き返すには丁度いい天気のように思える。

「おい」

いきなり小突かれて、わたしは嫌々ながら外の景色からゆっくりとハレルヤに焦点を変えた。折角の青々とした気分が台無しだ。何よ、と言うと、ハレルヤはくい、と顎で教壇を示してまたにやにやと笑った。

さん?ここ訳してみて」

教師が本を教壇に置いてわたしを見る。驚いてわたしが咄嗟に答えられずにいると、教師はもう一度、さん、とわたしを呼んだ。クラスメイトの視線が次々に刺さるのを感じて、わたしはとりあえず立ち上がる。しかし、ここ、と言われても外の景色ばかり見ていたわたしにはそれがどこかなど分かるはずもなくて、わたしは、どうしようか、と答えが書いてあるわけでもないのにただただ視線を教科書に落とした。教科書には、先ほどハレルヤがシャーペンで書いたくだらない落書きたちが散らばっている。

「あ」

ふと見れば三行目の天辺に星マークが落ちていた。湿気を帯びて重たくなった沈黙に包まれている教室に、不意にわたしの声が弾ける。

さん?どうしたの」
「いえ...すいません」

半ば半信半疑で、星が落ちていた行を訳す。すると、教師は何事もなかったように至極普通にありがとう、と言って再び教室全体に向かって話し始めたので、わたしは急いでハレルヤを見た。彼は相変わらず、椅子に横に座ってわたしの机に頬杖をついてにやにやとわたしを見ている。ここは素直にありがとう、というべきなんだろうが、そんな様子の彼を見たらそうするのが何だか少し腹立たしかった。それでも、お礼くらいは言わなくてはならないだろう。

「あの、ハレルヤ、ありがとう」
「なあ、

え、とわたしは思わず目を瞠る。名前を呼ばれるのは初めてのことだったが、それは間違いなくハレルヤの声だった。突然のことで、どきん、どきん、と心臓が高鳴る。

「なに」

しかし、わたしは平静を装ってそう言い、すぐにハレルヤから視線を外した。ただ名前を呼ばれただけなのに、もうまともにハレルヤの顔を見ることができない。かといって、胸がドキドキして外の景色に没頭することもできなくなっていたので、わたしは仕方なく他のクラスメイトと同じように教師の声で教科書のページをめくった。途端、わたしの視界に再びシャーペンの文字が飛び込んでくる。また落書きか、そう思ったけれども、よく見れば教科書の隅にあったその落書きは、わたしを救ったあの星マークでも、彼が得意とする何を模しているのか分からない不思議な絵でもなかった。見えるのはただ一言、汚い字で簡潔に書かれた「すきだ」の文字。

「え」

頓狂な声をあげてわたしが反射的に顔を上げると、ハレルヤはいつもの含み笑いを消して

「言っとくけど俺は本気だ」

と静かに言った。いっそ恐ろしいほどに彼の金色の瞳がわたしを正面から見据えている。わたしは何とか冷静になろうとしたけれど、どくんどくんと心臓がうるさく鳴っているせいで、もう雨の音も古典の朗読も上手く耳には入ってこなかった。結局、頬も耳も熱いまま、わたしはどうしていいのかわからずにただハレルヤの視線を受け止める。すると、わたしは見つめた先にある彼の金色の瞳の中にも、外の景色が反射して雨が降っていることに気が付いた。いつも晴れていると思っていたのに。彼もわたしとおんなじだったんだ。そう思ったら、何だか少しほっとした。そうしてその瞬間に、わたしは彼との恋に落ちる。





124ページの初恋





030809/花鶏
(恋に理屈は通用しない)