その日の夕方はあまり調子が良くなくて、わたしはこっそり医務室へと足を運んでいた。今までに感じたことのない不快感だったので心配していたけれども、船医であるモレノさんが言うには、どうやら、わたしは病気ではなくて、「妊娠しただけ」らしかった。モレノさんは心底人好きのする笑顔で「おめでとう」と言ってくれていたけれど、わたしの頭の中は妊娠した、という巨大な事実と、モレノさんがその事実を告げる際にまるで蚊に刺されたくらいの重要度しか添えてくれなかったことに対する驚きでいっぱいで、折角の祝福を聞く余裕はとてもなかった。診察が終わっても、わたしはどうしてもその事実が信じられなくて、医務室を出る前に念のために二度「モレノさん、間違いないですか」「モレノさん、本当ですか」としつこく確認をした。しかし、モレノさんは同じように「妊娠しただけ」と繰り返すので、わたしは諦めて医務室を出る。妊娠。トレミーの廊下を移動しながら、わたしはそっと自分のお腹に手をあてた。何にも違いは感じられない。いつも通りのお腹。それでも、こんな場所に、一生懸命人間になろうとしている生物がいるのだという。不思議なものだ、と思ってふと、いつだろうと考える。いつからこの子はここにいたんだろう。しかし、浮かんでくるのは父親であるニールのことばかりで、わたしはすぐに答えを追求することをやめた。そうだ、ニールにはなんて言おう。彼に打ち明ける時のことを考えたら、一気に心臓が鳴りだして何とも言えない高揚感に包まれたけれど、残念ながらそれはすぐに違う驚きで上塗りされてしまった。

「あ、!いいところに来たわね!」

突如目の前の曲がり角で鉢合わせした上司は、舞台女優並みの発声と笑顔でわたしにそう言った。わたしはというと、ばくばく言っている心臓の上に手を置いて

「す、スメラギさん」

と辛うじて発声する程度しか出来なかったどころか、次の瞬間には大女優ミス・スメラギの

「さあ、飲むわよ!」

という、恐らくは台本通りのセリフと共に彼女の部屋に連れ込まれていた。飲むわよ、なんて言われたら、きっと昨日までのわたしは喜んで彼女の部屋に招かれただろう。だがしかし、それはあくまで昨日までの話だ。天地がひっくり返ってしまった今日からは、わたしはアルコール飲料という素晴らしい物の代わりにソフトドリンクを崇め奉ろうと思う。お酒は二十歳になってから。何となくわたしはそう呟いて、スメラギさんの部屋のドアをくぐる。すると、誰もいないと思っていた室内には栗色の髪をした見覚えのある男がいた。少し驚いたけれど、すぐにそれが十分にあり得る展開であることを思い出す。この限られた艦内で合法的に酒を飲める人間など、そういえば数える程度しかいない。

「お前も捕まったのか?」
「まあね」

苦笑しながら言うニールの隣に腰を下ろして、わたしは得意げに頷く。何をどう得意になれたのかは分からないけれど、何となく、わたしはそういう表情をしたかったのだと思う。

「それじゃ、俺は飲めないな」
「なんで」
「おいおい、いつも誰が酔っぱらったお前を介抱してやってると思ってんだ」

手の甲でわたしの頬を撫でるとニールはそう冗談めかして笑った。ニールが動く度に、微かにシャンプーの匂いがする。それはいつでもわたしを安心させてくれる数少ないものだった。でも、不思議なことに、同じシャンプーを使っている他の人間に対して同じ症状は出ない。わたしは暖かい気持ちが無意識に生んだ笑顔でニールを見つめた。そうか。彼はまだ知らないんだ。もうこれからしばらくは、そんな苦労をしなくてもいいことを。

「さあ、二人とも、飲みましょ」

陽気にボトルを掲げるスメラギさんは相変わらず美しくてたくましい。この人のためならいくらでも一緒に酔い痴れたいけれども、それでもわたしは気が付いたら首を横に振っていた。

「ごめん、スメラギさん」
?」
「わたし、しばらくお酒は控えようと思って」

僅かに苦笑する。申し訳なさに視線を落とすと、ニールがわたしの太ももに手を置いた。もちろん下心など全然なくて、彼は小さく眉を寄せてわたしを見つめながら、わたしの言葉の真意を測ろうとしているようだった。恐らくは、わたしの体調が悪いのではないかとか、何か病気をしたのではないかとか、わたしがモレノさんの診察を受ける理由になったのと同じような心配をしているのだろう。わたしはニールのそういうところが好きだった。彼はわたしを女として見てくれるだけでなく、時には年下の女の子として、時には彼のパートナーとして柔軟に扱ってくれる。

「どうした、どっか具合でも悪いのか?」
「.....なるほど」
「なんだよスメラギさんあんた何か知ってるのか」

訝しげに自分の方へと視線を移したニールに含み笑いをすると、スメラギさんは一度ボトルを掲げてそれをぐいと呷った。祝杯ということなのだとわたしはすぐに理解したけれど、理解したのは何もわたしだけではないようだった。



はっと何かに思い当った顔をして、ニールはすぐにわたしの名前を呼んで振り返る。

「なに?」
「お前まさか」

どきんどきんと鼓動が逸る音がする。わたしは頬が火照るのを感じながら、しばらくのことニールを見つめていた。恐らくはもっと丁寧に、その「まさか」の事実を言ったら良かったのだろう。しかし、緊張なのか喜びなのか分からない気持ちの高ぶりの所為で、わたしはただ間抜けにも、

「うん」

としか言うことができなかった。ああ、もっと色々と良さそうな言葉は考えてあったのに。わたしは出来れば胸中でそう後悔したかったけれど、一瞬だけ呆けた顔をしたあと、何の前触れもなく盛大にわたしを抱き上げたニールによってそれは妨害されてしまった。ぐるりと回って、満面の笑みを浮かべながらニールは強くわたしを抱きしめる。ニールのはしゃぎぶりはまるで無邪気な少年のようで、わたしは彼に抱き上げられながらそのきらきらとした様子を驚きとともに眺めた。いつも落ち着いていて大人っぽいニールがこんなにはしゃぐなんて。じわじわと、彼から溢れんばかりの幸せが伝わってくる。そうしてようやく、わたしは途轍もない喜びに打ちひしがれた。


!でかした!」
「ちょ、ちょっとニール!」













ドルチェ・ヴィータ
(ディ・オットーブレ)



031009