世界中に散らばる愛はどれも形を持たないものだと口を揃えて人間は言う。目には見えない愛情。それは触れることのできない感情。そんな言葉を、もう何度見て、聞いて、疑ってきただろう。本を読むたび、音楽を聴くたび、わたしは本当に彼らの愛とは目には見えないものなのかと酷く疑問に思った。本来なら、のうのうと空想の神などに恋をしていない限りは、愛に触れることも、それを見ることも、人間には容易なはずなのだ。だから、彼らが彼らとおなじ人間を愛しているにも拘らず、冒頭で挙げた言葉の通り愛を感じられないというのなら、それは単に彼らの感覚が腐り始めているというだけの話であって、愛云々という問題では決してない。それなのに、その様な自らの愚鈍さに知らぬ振りをして勝手に愛を神聖化させるとは、全く、笑い話にもほどがある。わたしは胸中でだけそう悪態をついて、ふと、自分がいま読書中であったことを思い出した。しかし、もう読む気になどなれはしない。長い年月を経て草臥れた本は、ずっと昔は動物だった紙の匂いと、古いインクの匂いが混じって心地よい不思議な薫りを放ちながら、ぱたりとわたしの手で閉じられた。

「ティエリア」

ベッドの上に寝そべりながら頬杖をつき、視線の先にいた男の名前を呼ぶ。すると、少ししてその生き物は返事もせずに振り返った。緩やかに、藤の花の色をした髪が揺れる。アメジストの双眸がぶれることなく、そこにあることに、わたしは酷く安堵した。しかし、同時にとても泣きたくもなる。わたしは彼を愛していた。彼もわたしを愛していた。それはどんなに愛を知らない人間でも間違いようのない感情であった。だけれど、わたしたちの愛情は、目には見えない。何年、何百年、かかっても、他の生き物たちの愛のように、触れられる形を持つことは、できない。それは、決して読者を酔い痴れさせるための飾り立てた一文でも、聴き手を心地よく眠りに誘うための優しい歌詞でもなかった。それがわかっていたから、わたしは決して泣いてはいけないことも知っていた。ぐっと、涙を堪えて微かに笑う。

「ティエリア、わたし、子供が欲しい」

往生際の悪い音がじわり、と滲んだ。わたしの言葉を聞いたティエリアは、驚くでも、窘めるでもなく、どこか寂しい表情をして沈黙を孕んだ瞬きを一つ落とすだけで、それ以外は何も言わない。

「...

しかし、少しの沈黙の後に、やっと彼はわたしの名前を呼んで、僅かに首を振った。それはできない。彼の綺麗なアメジストが、黙ってそう告げていた。ティエリアはずるい男だ。悲しいことは、決して声に出して言ってくれない。いつものように容赦なく言ってくれれば、わたしだって諦めがつくかもしれないのに、彼はわたしが本当に傷付くことだけは絶対に言わないのだ。ティエリアは、ずるかった。だが、それ以上に、彼はやさしい生き物だった。

「わかってる」

相変わらずの静寂の中、わたしはたった一言そう呟いて、ベッドから起き上がって彼の居る机の前まで向かう。じっとわたしを見つめるアメジストの双眸が近くなる。しかし、彼の隣にまで行くと、わたしはその綺麗な双眸を見ていられなくなった。まるで双眸から逃げるようにティエリアに抱きついて、彼の細い肩に顔をうずめる。わかってる、ともう一度呟くと、椅子に座っていたティエリアの腕が静かにわたしを抱きしめた。わたしたちの愛は、もしかしたらわたしが思っているよりもずっとずっと長く、この世界に存在し続けるかもしれない。それでも、永遠とは程遠い世界で生きている人間たちが繋いでいく愛に比べたら、それはほんの一瞬に等しい長さだろう。出会って、恋をして、愛を知り、命を賭けて命を生んで、そうしていつか次の季節を迎えるために散っていく彼らの愛情の長さに、わたしたちの愛は敵わない。それに、風が吹けばすぐに散ってしまいそうなくらい儚く見えるのに、本当は驚くほど力強くて、とても綺麗に薫るその愛情は、非常によく似ているけれども確実にわたしたちのものとは違っていた。だって、色も、様相も、彼らのものに等しいわたしたちの愛はしかし風に吹かれても何の香りも放たない。次の季節を迎えるために散ることもない。まるで造花のようだ。ティエリア、とわたしはいつの間にか涙に染まっていた声音で彼を呼んだ。きっと彼なら、どんどん暗くなっていくわたしの心を救ってくれるだろうと思ったのだ。しかし、ティエリアは、なんだ、とも、どうした、とも聞かずに突然、「それでも、僕はきみが好きだ」と悲しみに満ちた声で言ったので、ついにわたしは彼の肩に顔をうずめたまま大粒の涙をこぼした。







造花の傍で死んでいた

032809 Dedicated to Ms.Natuno
(きみはその死骸を愚かだと笑うだろうか)