その日、まるでフラッシュバックのように鮮明な夢から目覚めると、他人がいる、ということは大変な驚異であるとわたしは思った。同じ方向を見ていたって、同じ風に吹かれていたって、同じ時間を過ごしていたって、自分と他人が全く同じ経験をすることはない。そう思ったら、何を見て何を感じて何を思っているのかさっぱり分からない生き物が、すぐ近くで息をしていることに、わたしは何だか大きく絶望した。しかし、すぐ近くにいる分はまだいい。それが絶望である間は、まだ。ソレスタルビーイングという組織の人間であるわたしの近くにいるということは、その人間はわたしの仲間であって、わたしが彼らを傷付けることも、彼らがわたしを傷付けることも、恐らくは、ないだろうから。問題なのは、わたしの向かいに立とうとする他人だ。敵対を意味するその場所に立とうとする限り、わたしは彼らを排除しなければならない。しかし、本当に、排除してもいいのだろうか。彼らは他人だ。他人の事は、自分には分からない。彼らは本当に排除されなければならないのか。何か深い理由があって敵対しているのではないのか。誰かに敵だと教え込まされただけではないのか。わたしは酷く恐ろしくなった。本当に、わたしたちは、己が信じるような善であろうか。正義であろうか。見る見るうちに恐怖が体内で腫れ上がる。恐怖は、瞬く間にわたしの胸の内側を喰い荒して空洞にした。風がその穴を潜り抜けていく。冷え冷えとした風だった。ぞっとした。わたしは自身に問いかける。わたしは、わたしたちは、本当に正しいのか。

、どこにいるの?はやくブリッジへ来て。ミッションが始まるわ」

不意に、携帯端末が受信した映像が空中に浮かび上がって、わたしは視線を画面の人物へと向ける。戦いが始まるのだと知った心臓が震えて、息が出来ない。声も出ない。それでも、答えを求められているのだと思い何とか一度小さく頷くと、通信はすぐに切れてまた静寂が辺りを覆いつくした。震える足を踏み出して、部屋を出る。こういう時、頭に従っていては、仕事が出来ないことを、幸いなことにわたしはよく知っていた。ひんやりとした壁に手をついて、ぐっと押す。しかし、そうしてブリッジに向かうその間も、頭は必死に抵抗を続けていた。行きたくない。戦いたくない。誰かを傷付けることも、間違いを犯してしまうことも酷く怖くて堪らない。そう思うと、もう震える体を無理やりに動かすことはできなくて、まるで心肺停止状態の患者を運ぶ救急救命士のように、わたしはすぐにブリッジとは逆の方向へ自らの体を運んだ。見えたドアをくぐると、大きく開けたその一室では、高い天井に取り付けられた眩い照明に何機かのガンダムがぎらぎらと煌めいて出撃を心待ちにしていた。わたしが格納庫に飛び入ると、一人のマイスターが、コックピットを閉めようとしたその指先を止めて、訝しげに視線を向ける。声をかけることもなく彼の傍まで行って、わたしはコックピットの端に掴まった。先ほど早く来るようにと連絡を入れてきたスメラギさんが驚いて彼の乗る機体に通信を入れてきたのが見えたけれども、彼は何も言わずにその通信をぷつりと切った。そうして、刹那はわたしに向き合って、目を細める。ヘルメット越しの視線が、そっとわたしに、どうした、と問いかけていた。

「スメラギさんに怒られるよ」
「気にするな」
「......刹那、戦うのが、怖くなった時はない?」
「...ない」
「自分が本当に正しいのか、不安になったことは」
「ない」
「.......刹那は強いんだね」

彼は自分とは違う。その現実をはっきりと突き付けられて、わたしは少しだけぎこちなく笑った。一機、また一機と出撃準備に入る忙しない音がして、マイスターたちがコックピットに乗り込んでいく。もう行かなければ、本当にスメラギさんに怒られてしまうなと思ったわたしは、聞きたかった言葉を得ることも、言いたかった気持ちを口に出すことも、出来ずにそっと見送りの言葉を言うために刹那を見上げた。すると、彼は微かに口元を緩めて、わたしの頬に手を伸ばす。


「なに?」
「戦うのが怖くなったのか」

そう言って一度だけ頬を撫でて手を引いた、その刹那の言葉に、わたしは思わず大粒の涙をこぼした。身体の中の空洞が風を通すたびに、指先が冷えて心臓が凍えそうになる。その恐怖は、誰にも言わないでいたからこそ、辛うじて耐えられていたものだった。それなのに、刹那が声に出して言ってしまった。止めることは、もうできなかった。震える心臓がまた声を殺して、息が詰まる。わたしは、小さくひとつ頷いて瞬きをした。それから、落ち着かない呼吸を無理矢理に支配して何とか音を紡ぐ。刹那は静かにわたしの言葉を待っている。

「敵にだって、何か事情があるのかもしれないし、本当は、向こうが正しくて、わたし達が間違っているのかもしれない」
「そうかもしれないが、現に彼らは俺達の前に立ちはだかっている。無視はできない」
「たったそれだけの理由で人を殺すの?」


刹那は少し強い調子でわたしの名前を呼んだ。しかし、昔のように、フルネームで名前を呼ばれることは、もうなくなっていた。

「確かに、俺たちと同じように相手には相手の正義があって、理由があるだろう。そこに善悪をつけることは難しい」
「それなら」
「だが、決断することを恐れるな」

強い光を得た双眸が、真っ直ぐにわたしに向けられる。厳しい表情ではないそれは、しかし酷く記憶に焼きつくものであった。彼が、言うことは正しかった。直感ではあったけれども、すぐにわたしはそう思った。わたしは戦いで人を傷付けてしまうかもしれないことや、間違いを犯してしまうことを恐れていたのではない。ただ、これが自身の望んだもので、そうして信じる正義だということを、正しいのかすら分からないまま決断するのが怖かったのだ。しかし、この世の中に一人しかいない自分という存在と違って、数えきれないほど存在する他人というもの一人一人の立つ位置それぞれから見るだけで、恐らく善悪は面白いほどはっきりとひっくり返るだろう。敵の立ち位置にいれば、恐らくは彼らが正義を背負っていると思うのだろうし、全く関係のない民間人の立ち位置にいれば、きっとこれを迷惑なだけのくだらない戦いだと思うに違いない。どれが正義で、どれが善かなど、きっと考えるだけ無駄だった。正義も善も、何かと比較して作るものではない。わたしが選んで信じたら、それこそが、わたしにとっての正義であり、善であり得る唯一のものなのだ。

「ありがとう、刹那」

わたしはそっと微笑みを零した。なんだ。気付いてしまえば何てことはない単純なことだった。わたしはそう思ったけれども、それと同時に、きっと刹那がいなければ答えを見つけることはとても難しかっただろうとも思った。空洞だった身体の内側の寒さをもう感じない。恐怖はいつの間にか腹の中からいなくなっていた。

「礼を言われるほどの事じゃない」
「それは助けてもらったわたしが決めることよ。.....ブリッジに行くわ」
「ダブルオーの発進シークエンスを頼む」
「了解。気をつけてね」
「努力する」






砕いて与えたレゾンデートル

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