初夏の陽射しが眩しい。私は小さく目を細めて、流れる人混みの中でこちらに向かって優雅に手を振る人間に視線を寄せた。ああ、どこかで見たなと思ったそれは、良く見れば久しぶりに会う友人のようであった。彼女はにこやかな笑みを浮かべて大層嬉しそうに私の前に立つ。私は咄嗟に彼女の名前が浮かばずに焦る。必死に過去を遡って、やっと彼女が「喜多村さん」であることを思い出せば、喜多村さんは品が良さそうに小首を傾げてこんにちは、さん、と言った。すんなりと私の名前を言える喜多村さんに少しだけ劣等感を覚えながら、どうも、と愛想笑いを浮かべて私はまじまじと彼女を見る。喜多村さんは綺麗な服を着て、素敵なパートナーを連れた美しい女性に成長していたが、なんだかどこにでもいそうな女性のようにも見えた。

さん、お久しぶり」
「うん、久しぶりだね喜多村さん」
「うふふ、こんな遠い海外で会うなんてすごい偶然ね、元気にしてらした?」
「それなりに。喜多村さんは?」
「元気よ、ねえ、今は何をしてらっしゃるの?」
「宇宙で働いてるわ」
「宇宙で?」

まあ、と言って喜多村さんはその綺麗な指先を口元へ宛がった。そうして少しばかり眉尻を下げて、「心配だわ」と言う。私はとにかく眩しい陽射しが嫌で、片手を額に添えて少しでも眩しくないようにと努力することで一杯一杯だというのに、喜多村さんはパートナーの持つ日傘に守られてとても居心地が良さそうであった。

「わざわざそんな危険なことなんかする必要はないでしょう?お止めになったら?」

相変わらずの人混みの中で、何故だかその一言だけがやけに明瞭に聞こえた。弱々しい風が頬を撫ぜて、髪を揺らす。私は一瞬、この人間は何を言っているんだろうかと思った。しかし、冷静になって考えれば喜多村さんが言うことは的を得ている。確かに、わざわざ私がソレスタルビーイングという反乱分子に居残ってリスクを背負い続けなければならない理由は、もうどこにもない。降りたい、と一言、言いさえすれば、私にも抜ける自由は与えられるのだ。私は目の前に佇む喜多村さんを見て、それもいいなと思った。何て言うか、幸せそうだ。

「そうだね」

私はほぼ無意識のうちにそう呟いて、それじゃあ、と喜多村さんとそのパートナーに別れを告げた。彼女は私の連絡先を知りたがっていたけれども、恐らくそう会う機会もないだろう。丁寧に断って、私は美しい友人に背を向ける。酷い構図だと思った。彼女は地上で大多数の人間と変わらぬ生活をして、特に目立つこともなく社会に埋もれながら、それでも誰もが何となく手に入るだろうと信じて疑わないような幸せを一通りその手中に収めている。一方の私は、大多数の人間に埋もれることをよしとせずにその流れから飛び出して、世間の話題を攫うような組織に加わって、望んでいたような生活を手に入れた。けれども、それだけだ。自分で決めた道だと思って歩いてきたけれども、私が望んでいたことは、他人と違う生活などではない。少しでも多くの幸せを手に入れることであったのだ。ここで、私は私たちの組織が彼らの幸せを勝ち取ったなどと偉そうな事を言うつもりはない。ただ、愕然としただけだ。あれほどまでに嫌悪していた「社会一般」に憧れる自分がいたということに。喜多村さんと別れて、人気のない荒涼とした街の外れまで辿り着いた私は、ジーンズのポケットに入れていた携帯端末を取り出して、目的地を確認する。いや、正しくは、確認しようとしたところで、突然の声が私の行為を阻止した。

「おい」

見れば、向かう先に同僚の男が立っていた。ライル・ディランディだ。昔々、一時期だけではあるが同じ商社で働いていたこともある、私とは不思議な縁のある男であった。きっと、スメラギさんが寄越すと言っていた迎えとは彼のことだろう。私は何とはなしにライルの許まで歩いていったが、私が立ち止まると同時に彼は酷く怪訝そうな顔をしてこちらを見て、「荷物はどうした」と言った。瞬時に私の脳内で様々なことが蘇ってくる。そうだった。私が地上に降りてきたのは、物資を調達するためであったのだ。しかし、今の私は誰がどう見ても手ぶらである。使いにやったはずの人間の両の手が見事に空いているという、その異様な状況をどう説明しようかと思っていると、ふと先ほどの喜多村さんが思い出された。忘れたい人に限って、こうしてなかなか忘れられない。ライルの声を聞きながら、私はそんなことを考えていた。

「何かあったって顔だな。まあ、そうでもなけりゃ手ぶらなはずないか」
「昔の友人に会ったのよ」
「へえ」
「綺麗になってた」
「久しぶりに会えばみんなそんなもんだ」
「幸せそうだったわ」

遠くで響く街の喧騒が風に乗って通り過ぎていく。教会の鐘、車のエンジン、人の声、犬の鳴き声、洗濯物のはためき、木々の揺れ、猫の足音、私とライルの息遣い。ひとつ、ふたつと風がよぎる度に、違う音がする。私は思わず口を噤んだ。今口を開けば、私の声もその風に乗ってどこかへと行ってしまうようであった。煙草をくわえながら、ライルは相槌を打つのをやめてじっと私を見詰めている。その表情は「まさか」と言いたげであったが、私はそんな彼を見上げて臆することなく「羨ましいと思った」と言った。

「宇宙で働くなんてそんな危険なことはやめたらって言われたの」
「それで?お前は何て返した?」
「気が付いたら、そうだねって言っていた」
「......泣くほど嫌ならやめればいいさ」
「ほんと そうよね」

苦く笑って私は少しだけ俯いた。地面に雨粒が僅かに落ちる。ライルは何も言わずに吸いかけの煙草を携帯灰皿に放り込んだ。

「でも、あたしは喜多村さんにはなれないんだ」
「ああ」
「どんなに他人に憧れても、あたしはあたしなのよ」

私は叱られて泣く小学生のようにぼろぼろと涙をこぼしながら、ぐっと腹に力を込めてライルを見た。ああすればよかった、こうすればよかった、は意味がない。例え選択肢が一億個あっても、一つしかなくても、いつだって選び取れるのは一つだけなのだ。選ぶことでしか物事は変えられない。そうして、選んだら、やり直しは利かない。だが修正は利く。だからみな足掻くのをやめない。



久しぶりに名前を呼ばれて、私は少しだけ驚いた。しかし、ライルはそのまま私の涙を拭うばかりか私をぎゅうと強く抱き締めたので、名前を呼ばれた驚きは二秒で霧散する。「ライル、」と私が掠れた声で呼び掛けると、彼は抱き締めた腕の力を少し緩めて、どこか悲しそうに微笑んだ。

「他人なんて気にするな」
「  そうよね」
「お前の幸せはお前がいるところで生まれるもんだ」

自分がいるところで。私は思わず繰り返してその言葉を呟いた。それは何だか私が今までずっと悩んでいたことへの答えのようにすんなりと胸の中に落ち着いて、とても私を安心させる。弱々しい風が私の睫毛の先に揺れる涙を冷やして流れていく。相変わらずの陽射しの中で、今度こそ私は涙なしで苦笑した。ライルは呆れたように溜息をついて一歩を踏み出す。街へと逆戻りする私たちの手は、一体どちらがそうしたのかはよく分からなかったけれど、いつの間にか呆れるほど強く繋がれていた。










きみのしあわせをいちばん近くで願っています


071009