わたしにはひとつ、隠していることがあった。それは、同僚にも、上司にも、友人にも、恋人にも、言えなかったことだった。わたしは真っ直ぐに、目の前の鏡に映る自分を見る。嬉しいのか、悲しいのか、恐ろしいのか、とにかくわたしは泣いていた。妊娠してから情緒不安定になることは多かったが、それでも、もう何ヶ月も経っているのだ、今回ばかりはそれからくるものではない、と思ってわたしはただ静かに瞼を伏せた。涙が引いた頃に再び瞼を上げると、鏡の向こうのわたしは、普段と何一つ変わらないわたしであった。

「刹那」
「どうした」
「いま、すぐ、来て」

リビングで、空を隔てた向こうにいる刹那へと連絡を入れる。外はもう暗闇に包まれている時間であったので、もしかしたら、今日は来れないかもしれないな、と思いながらゆるくひとつ瞬きをすると、刹那は存外に快諾して電話を切った。携帯を傍に落として、わたしはソファに身を埋める。微かに、指先が震えている。溜息をついて天井を見上げながら、少しずつ大きくなる腹をその手でそっと撫でると、思わず口元に笑みがこぼれた。


刹那がやってきたのは、電話から1時間もしない頃だった。いつもより早い到着に、大分急いでくれたのだなということが窺える。玄関の鍵が開く音がしてドアが開かれると、黒い服に身を包んだ彼が音もなく室内に滑り込んだ。ソファから立ち上がって玄関に向かうと、こちらに向かってくる刹那に廊下の途中でそっと抱き留められる。懐かしい心地に、わたしは出迎えの挨拶もせずに彼の腕の中でただ目を閉じていた。暗闇の中に、静かに響く呼吸がふたつ、規則正しく繰り返される。時計の音や、外の道路から、車やバイクが通り過ぎる音が微かに聞こえてくるくらいで、室内はほとんど無音であった。カチ、コチ、と時計が時間を刻む合間に、ゆっくりと紡がれる刹那の声が、わたしの頭上で生まれていく。

「体調は良いのか」
「悪くないわ」
「そうか」
「ごめんね、急いで来てもらって」
「いや」

刹那は軽くかぶりを振って、わたしをじっと見つめた。何の用件で呼ばれたのか、知りたいのだろう、とわたしは思った。静かに刹那から離れて、わたしはリビングへと戻る。刹那は、黙ってわたしに続く。しかし、彼はわたしがソファに腰を下ろす前に、ぐいとわたしの手を掴んで引き止めた。何事かと思って振り返れば、刹那は困惑するわたしをその赤い双眸で捉えて、何があったんだ、と強く尋ねた。口調こそ強かったが、それはわたしの緊張を察した彼の懸念から生まれるものだ。わたしは一度視線を落とすと、そっと、深呼吸をしてもう一度刹那を見上げた。少し膨らんだ腹の辺りが温かい。もしかしたら、父親に会えて嬉しいのかもしれないなと、わたしは取り止めもないことを思って小さく笑った。

「刹那、わたし、刹那に隠していたことがある」

刹那は黙って、わたしを見ている。時計の針が三度鳴って、外を車が駆けていく。空いた方の手で、テーブルの上に置かれた電気のリモコンを掴む。スイッチを押す直前に、わたしは再び、刹那を見た。不安だった。刹那は何かを言いかけたようであったが、それでもわたしは迷わずに、部屋の明かりを全て消した。刹那が掴んでくれた手から伝わる、彼の体温がよく分かる。瞼を伏せて、もう一度目を開くと、わたしが用意した暗闇は、もう何の意味も持たなくなった。煌々と輝く、黄金色の双眸が、彼の赤い瞳に反射する。刹那が目を瞠って、息を呑む。わたしはすぐに、彼から視線を外した。怖くて、怖くて、堪らなかった。

「はは」

乾いた笑いだった。わたしは自分の唇の合間から思わず零れ落ちたそれを、綺麗に飾る方法も分からずに、ただそれ以上のどんな言葉をも飲み込んで支配するためだけに響かせた。刹那は既に冷静を取り戻していたが、彼自身の言葉の為にわたしの視線を無理に捉えようとはしなかった。代わりに彼はしばらくの間、ただじっとわたしの様子を見守って、掴んだ手を強く強く握っていた。どれほど経ってからか、わたしは、そっとその手を握り返した。

「いいよ、刹那、言って」
「怖いのか」
「怖いわ」
「なら、、怖がる必要はない」

わたしは与えられた言葉に視線を上げた。刹那は、もはや赤い双眸でわたしを見つめてなどいなかった。優しい笑みのひとかけらも窺えない彼の表情からは、未だ戸惑う彼の心境が垣間見えるが、そこに不安や迷いは見当たらない。わたしは、暗闇の中で掴まれた手を、そっと繋ぎ直した。暗闇の中に、静かに響く呼吸がふたつ、規則正しく繰り返される。お互いに、言葉もなく見詰め合う、その室内はやはりほとんど無音であった。








音無の夜に産声



092310