わたしの頭は真っ白だった。何も考えられない、という状況さえ、理解できない。脳が機能することを拒んでいる。わたしは視線さえも動かせないままに、わたしの脳を破壊した張本人と見詰め合った。真っ直ぐに、澄んだ双眸。それは無性に、会いたい、と思った懐かしい人のそれとは違ったけれども、それでもとても美しい。わたしの視線をしっかりと受け止めて目の前に立つ刹那は、何も言わずにじっとわたしを、見つめていた。







きっとこの世に神など居ない






「拘、束?」

新しい言葉を学ぶ子供のように、は丁寧に唇を動かして息を押し出す。栄養失調のような細くて弱い震えた声が辺りに静かに広がった。刹那はまだ黙ってを見つめている。しかし、不意に糸が切れたかのようにの体が崩れ落ちようとすると、その手は何の迷いもなく不安定な精神状態のを力強く支えた。どくどくどくどく。支えた先から伝わる心音は、の心臓が早く死にたがっていることを知らせている。ああ、と刹那は理解した。彼女にとって、あの男は神なのだ。彼が彼女の血であって、呼吸であって、心臓なのだ。刹那は神という存在が個人の中でどれほど大きなものになれるかを知っていた。しかし、生きていて、しかも自分だけを愛してくれる神など見たことも聞いたことも信じたこともない。だから刹那は理解した。そんな紛い物は連れ戻して人間に戻さなければならない。

「もうじき救出ミッションが始」
「4年も」

ふ、と俯いていたが微かに嗤う気配がした。そっと刹那の胸に手を当てて、は刹那から身を離す。乱れた髪に隠れて顔は見えないけれども、泣きそうなのだろうと刹那は思った。

「4年間も、彼は拘束されていたと、いうの?」
「ああ」
「独りで」
「そうだ」
「...拷問に耐えて?」
「それは、わからない」
「........わたしが」
「...、もう」
「わたし、が、普通にご飯を食べて笑って眠って何不自由なく暮らしてた4年間を」

まさか、彼が、そんな風に過ごしていたなんて。かたかたと歯が鳴った。乾いた唇から色が消える。全然知らなかった。想像すらしなかった。

「は、はは...死んでしまいたいって、こういう時、のために、ある言葉だったんだね 刹那」

ぜんぜん、しらなかった

「思っていることと言うべきことが逆だ」

ぼたぼたと、何の苦労もなく落ちる涙を気にもせず、自らを罵る笑みを浮かべたを見つめながら、刹那は小さくそう呟いた。この感情に触れることは容易いけれども、触れたからとて彼女の痛みを払拭することなど、自分には到底できない。触れたって、何が出来よう。虚しいだけだ。しかしあの男なら、或いは、

「あの、ひと、きっと何にも抵抗しないで捕まってる、きっと自分が悪いんだって自分を責めて苦しんでるきっとまた」

「う、..」
「必ず連れて帰る」

ミッション開始の合図が艦内に放たれると、刹那は出来るだけ優しく、ゆっくりとをその場に座らせた。ミッション前の心地良い緊張が体内を巡る。力なく座り込んだは声を上げて泣いていたけれども、離れる際に縋りついた彼女の腕に応えてやるのは自分の仕事ではないと刹那は思った。しかし、彼女の求めるものを見つけ出して連れてくるのは自分の役目だということは明確だったので、刹那は何の躊躇いもなくその場に背を向ける。絶望に満ちた泣き声に混じって背中に掛けられた声にも、振り返ることはしなかった。ただ、聞こえてきた言葉が、死んでしまいたい、ではなくて良かったと心から刹那は思う。ミッション開始直前の静まり返った廊下に出ると、彼の綺麗な双眸は、もはや真っ直ぐに揺ぎ無く前だけを見つめていた。

「たすけて 刹那」














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