目覚めると、何だかすべてのものが懐かしく、そうしてとても優しく見えた。夢なのではないかとさえ思っていた現実が、一夜明けた今もこの目の前にあるだなんて、にわかには信じられない。しかし、こうして確かに、光も自由も言葉を交わす相手もいない孤独から、僕は突然に、きらきらと輝く世界へ連れ戻されたのだ。懐かしい世界。ここには音があって、熱があって、人がいる。それまで自分が何のつもりだったのかはわからないが、自分以外の人間に触れて、僕はやっと自分が人間になれたような気がした。しかし、人間になれたというだけで、まだアレルヤ・ハプティズムにはなれていない。そうなるために必要なものが、僕には決定的に欠けていたのだ。






そして煌く未来のジオラマ
(やっと始まる新たな道はきみと歩くと決めていた)







アレルヤは、少し嬉しいような、気恥ずかしいような感情と共に新しい制服に袖を通して、色々とプトレマイオス内を歩いて回った。格納庫、ブリーフィングルーム、食堂、それから、自分を助けるための予報をくれたスメラギの部屋。そこで、アレルヤとスメラギは短い時間ながらも色々な話をした。マリーのこと、スメラギが抱える過去のこと、本当は一番最初に向かいたいはずの場所に、なぜか足が竦んで向かえないアレルヤ自身のこと。会いたいのに、会うのは怖い。それは不思議な感覚だった。そのことを告げると、スメラギは困ったように笑って、そしてすぐに悲しそうな顔をした。を助けられるのは、いつだってあなただけだということを、忘れないであげて。先刻与えられたばかりのそんな言葉を思い出しながら、アレルヤはその整った顔を小さく歪めた。僕が、彼女を助ける?そんな大それたこと、僕に出来るはずがない。今までだって、ずっと、が自分を助けてくれていたのだ。自分には何も、出来ることなどなかった。愛されて愛されて愛されて、最後に返すのはいつだって少しの笑顔だけ。それに、愛されることはとても心地良かったけれども、同時にとても、怖くもあった。そんなことを思いながら廊下を歩いていると、ふと、高くて低い2つの声に出くわす。姿は見えないけれども、アレルヤはその声に自分の心臓が跳ねるのを感じて確信した。

「こんなものを持って、どこへ行く?」
「...刹那」
「待て」
「どこでも、いいでしょう離し、て!」


ああ、と知らずアレルヤは息をついた。どくどくと早まる心臓は、彼女に出会うことを恐れていて、そうして同時に、彼女に出会うことを望んでいる。アレルヤは引き返そうと思った。プトレマイオスに帰還する際に、少し苛立った様子の刹那から、は酷く泣いたと言われたことが脳内に甦って翻る。最初は何故だか分からなかったけれども、今なら、の涙の意味も、刹那の苛立ちの意味も、よく分かる。きっとはまだ自分のことを好いてくれているんだろう。でも、マリーの救出を一番に望んでいる今の自分を知ったら、どう思うだろうか。恐らく、認めてはくれないだろう。マリーに対する自分のそれは確かに愛ではないかもしれないけれど、それでもこの決意はきっとに大変な苦しみを与えてしまう。傷付けたくない、と思った。そして、どうか、こんな自分を認めないで欲しいと思う。アレルヤはそっと、言い合っている2人の姿を窺った。ナーバスになって声を荒げると、そんな彼女の手首を掴んで真っ直ぐにと向き合う刹那。似合いすぎて、眩暈がした。あの場所には、もはや自分が入り込む隙間など微塵も無いのだろうか。音の無い苦しみが急に何処からかやってきて、アレルヤの呼吸を奪う。どんどんと体温が下がっていく気がする。昔から、刹那がを大切に思っていることは知っていた。しかし、それでも、が選んだのは刹那ではなくて自分であったはずで、そんなに応えようと思ったのも、自分のはずだったのに。そう思って、アレルヤはすぐに気が付いた。そうして、引き返そうとしていた足を反対の方向へと踏み出す。に否定されることを望むべきだと思う気持ち、誰かを愛するために資格が必要なこと、この状況のこと、すべて、認めたくないのは、僕の方だったのだ。

「刹那、もう、その辺にしてあげてくれないかな」
「.....................アレ、ル、ヤ.....」
「.......やっと出てきたのか」
「うん、すまない...後は、僕が」

そう言って近付くアレルヤに、刹那は無造作に何かを投げ渡して、掴んでいたの手首を離す。投げられた小さなそれを受け取ると、アレルヤは刹那と入れ替わるようにしてするりとの手を握った。それから、歩みを促すように、そっと一度だけの背を押してやる。少し痛いくらいに握られた手に、もう、逃げられないのだとは思った。伝わる熱に、自己嫌悪が募る。もう二度とこの熱に触れることなどないはずだったのに、もう二度とこの人の傍には居るつもりなどなかったのに、どうしても、繋がれた手を離せない。重くなる罪悪感に、息が詰まりそうだった。言葉も交わさずに、ただ黙々と手を引かれるままにアレルヤに付いていく。しばらくして、連れてこられた先が見慣れたの自室であり、そうして、今一番戻りたくない場所だと知った時、いよいよは抵抗をした。いなくなるつもりだった人間の自室である空間に入れば、誰だってすぐに何をしようとしていたのかを理解してしまう。しかしそんなの抵抗をよそに、アレルヤは足を止めず、さらに、微かな電子音と共に開いたドアが、拒む事もなく二人を飲み込んだ。煌々とした明かりに照らされる空間は、異常なくらいに綺麗な真白。

「これは...」
「........」
、どうして...」
「...どう、して?...」

微かに眉根を寄せて不安げに見つめてくるアレルヤを、は直視できずに横を向いた。こんなに愛しい人が、4年間も、ずっと拘束され続けていたのに、その間自分は何もしてあげられなかった。4年間、この人の綺麗な双眸は何を見てきたのだろう。4年間、この人の声は何を紡いできたのだろう。果たして、何かを見てきたのだろうか。何かを紡いできたのだろうか。こうして自分の手のひらに熱を伝えてくる手だって、ずっと自由に動かすことは出来なかったというのに。泣きそうになるのを堪えて、はそっと目の前の机を見る。綺麗に片付けた机の上には、もう、涙で霞んだあのフォトスタンドは見当たらなかった。記憶の中からも消してしまうつもりで居たそれは、もはや思い出そうとしても前のように鮮明には思い出せない。だから代わりに、何度も捨てることを躊躇ったのに、結局最後はその躊躇いも一緒に捨ててしまったことを思い出した。心が痛まなかったわけではない。ただ、それは胸の内に詰まっている巨大な罪悪感のそれに比べれば無いに等しいものだったというだけのことだ。それに、捨ててしまわなければ、決心したことを実行に移すのは難しかった。

「...ここから、いなくなるつもりだったからよ」
「......じゃあ、これは?」

そう言って、アレルヤは手に持っていた小さな端末を摘み上げた。それは、刹那がから取り上げて、アレルヤへ投げて寄越したもの。トーンを落としたアレルヤの声に、は横を向いた状態でさらに俯いた。元々は自分が持っていたものだ。見なくても、何かは分かる。こっそりと抜き取った、ソレスタルビーイングの、

「情報ね」
「笑えないよ、
「冗談何て言ってないわ」
「分かっているのかい?こんなことをしてもし他の機関に捕まったらきみは!」

あまりにも抑揚のない声で返すに、思わず声を荒げて、そうしてアレルヤはその違和感に気が付いた。目の前で顔を背け続ける彼女は、疾うの昔にそんなことなど理解しているように見える。そうだとするなら、それを理解したうえで、彼女はソレスタルビーイングを抜けようとしたのだ。情報という何より上質な餌を持ってまで、向かいたい先は何処だったのか。なぜ、今でなければならなかったのか。それらを繋ぎ合わせて浮かんだ答えに、アレルヤは身体が拒絶反応を示すような気がした。微かに震える唇が、しっかりと呟いたはずの言葉を台無しにする。体の中を流れている血液が、こんなにも冷たいものだとは、思ってなかった。具合が悪い。

「...どうして」
「また、"どうして"?....わたしが望んだのはあなたが傍にいてくれることじゃないからよ。況してや一緒に笑うことでもない。わたしが望んだのはただひとつ、わたしがいない、あなたの未来、それだけなの」

もう、何を言っているのか全然わからない。4年間で、人はこんなにも変わってしまうものなのだろうか。アレルヤは、泣きそうになるのを堪えての頬をそっと撫でた。背けられた双眸がそれに一度だけ応える。訪れたのは、何の会話もない痛いほどの静寂。しかし、その一瞬で、アレルヤは悲しいほどに理解した。

「...嘘、だね」
「違う」
「違わない」
「いや、アレルヤ、わたしもうあなたのことなんて」
「僕を助けて欲しいって泣いたのはだって、刹那から聞いたよ」

の言葉を強引に遮って、息が触れるほど近くで真実を突きつけて、アレルヤはそっと、震えるその唇を塞ぐ。4年振りに2人でしたキスは、温かくもなくて、優しくもなかった。それでも、長い間記憶の中にしかなかった感覚が、とても懐かしい。ゆっくりと沈黙を食んでアレルヤが唇を離すと、仄かに照らされた室内で、の唇が微かに色付いているのが見て取れた。よかった、とアレルヤは少しだけ微笑む。そうして、そっと窺うように覗いた双眸がきらきらと輝いているのも、震える唇が赤いのも、この沈黙も、何もかもが、まだここに愛が取り残されている証拠であって欲しいと思った。ゆっくりと、の目元を指で撫でる。何かを堪えるように、の表情がくしゃりと歪んだ。

「...わたし...アレルヤが、苦しんでる間ずっとここで」

か細い声が零れて、音もなく、熱い滴がアレルヤの指先を濡らす。

「ずっと、みんなと楽しく生活してた...の...よ....」
「そんなこと、が悲しんでばかりじゃなくて良かった」
「アレルヤ...わたし、に、もう、関わらないで」
「....
「辛いのよ...大事に、したいと思った、こんなに、優しい人を、わたしはずっと、」
「逃げないで」

無意識にアレルヤへと伸ばしかけた手を引いたに、そうして、自分を責めることで現実から逃げようとするに、アレルヤはそっとそう告げる。もう、罪悪感を感じることも、自分を否定することも、しなくていい。確かに許すことは責めることより難しいかもしれないけれど、自分を傷付けなければ何も許せないほど、は弱くない。分かってほしい。痛々しいほど赤くなったの目元に、アレルヤはやんわりとキスをした。それにほら、僕はまだ、こんなにきみをあいしている。

、同じことを経験したって、きみの苦しみは消えないよ。それに、そんなこと絶対させない。きみが4年間監禁されるくらいなら、僕が代わりに8年耐える」
「...冗談、言わないでよ.....」
「僕が笑っているように見えるのかい?」
「.........やだ...いやだアレルヤ...」
「....じゃあ、もう、こんなこと、二度としないで...」

の頬を包み込んで、アレルヤは酷く哀しそうに呟いた。その声は泣き声のようで、もはやは小さく頷くことしか出来ない。が持っていくはずだった餌をいとも容易く壊して、そうして涙を湛えた双眸と見詰め合うと、アレルヤはもう一度にキスをした。こんなキスで、きみが愛を知って留まってくれるなら、いくらでもしてあげる。微かにくぐもった声が唇の合間から洩れる。はそっと、瞼を伏せた。愛も、夢も、希望も未来も何もかもを捨てて、罪を償いに行こうとした自分が、馬鹿だったとは思わない。彼への愛が自分の愚かな時間を許してくれるのなら、何だってしようと思ったことは、偽善でも虚勢でも何でもなかった。本気だったのだ。しかし、そうすることが自分の心にとって一番いい方法であり、そうして彼にとっても大事に至る問題ではないと思っていたことは、愚かな間違いであった。なぜなら、自分が彼を呼び戻したかったのは、単に自分が彼を愛しているからではなかったからだ。何のために、自分は彼を呼び戻したかったのか?それは、彼が愛しいからではない。寂しかったからでもない。それは、彼が、今のわたしに必要なアイデンティティーの一部であったからだ。母親や父親、兄弟姉妹がいなければ、自分自身が別の存在になってしまっていたことと同じように、もはや、アレルヤ・ハプティズムがいなければ、という存在は成り立たない。或いは、そう解釈することはあまりに大げさかもしれない。しかし、そこに愛以上の何かがあったからこそ、わたしは彼を求めたのだ。それなのに、そんな存在から、罪悪感に押された自分は離れていこうとした。今思えば、やはりその決意も愚かしい。彼が自分の一部であるとするなら、恐らくは彼が言った様に、どこへ行こうとも、何をしようとも、そこに彼が居なければ、欠けたままの自分の苦しみは消えることなどなかっただろう。しかし、もう二度と考えることなどないそれは今となってはさほど重要なことではない。何せ、どんな環境に置かれようと、どんな状況に出くわそうと、お互いにお互いが必要である、そう理解した自分たちが離れることは、もう、ないのだ。は自分の幸運に感謝した。それを知った時点で既に他人よりもずっとずっと幸福であるというのに、さらに自分たちには愛もある。キスをして愛を確かめ合うことも、抱き合って熱を共有することも、笑い合って誰より幸せだと思うこともできる。なんと幸せなことか。は自分の幸運に、感謝した。そうして固く決意する。わたしを完璧にしてくれた彼の一部になるために、そして彼を完全にするために、わたしはここに留まろう。音もなく流れていたの涙が止む。アレルヤは、必要最低限の酸素だけを与えて何度か繰り返したキスを止めて、の頬に残る涙の跡を撫でた。ようやく困ったように微笑んだが告げた言葉に、泣きたくなるのを堪えてそっと微笑む。そうして、頬に触れる指先を久しぶりに感じながら、アレルヤは自分が言おうとしていたはずの音に耳を澄ませた。









「一緒にいたい」









「僕で、よければ」














(いつまでも)
110408