わたしは夜が好きだった。一日の中で最も穏やかな休息の時間。それは、ゆっくりゆっくり、蒼穹に紫のヴェールが掛けられていって、ぽつりぽつりとやさしい星の光が落ちてくる静寂の。或いは、透き通った風が柔らかな薔薇の花を揺らして踊る歓喜の。澄んだ暗闇に、噴水から湧く水の音が重なって、月がそのふたつを我が子のように慈しんで照らし出す。風が薔薇と踊っている。星が夜空の庭で遊んでいる。わたしは夜が好きだった。


「こんな時間に、女の子が一人でどこ行くの」

「...晶」


背後から掛けられた声に、わたしはびくりと肩を揺らした。この声は晶だ。山科晶。この屋敷に居候をしている、上流階級の人間で、わたしの婚約者。彼に見つからないようにするのは確かに至難の業だが、それでも単なる散歩、そう思って屋敷を抜け出したわたしは恐らく少し浮かれていたんだろう。何せ、今日は満月だ。確かに、お伽噺のように狼に変身したりとか、そういったことはないけれども、それでも美しいものが静かに佇んでいる様子を、わたしは早く見たかった。しかし、それなら尚更注意すべきだったのだ。注意さえすれば、何度抜け出して中庭を散策しても、一度だって人に見つかることなどなかったわたしが晶に見つかることはなかっただろう。呟かれた言葉の余韻が消えた頃に、わたしはやっと背後からの声に振り返る。途端視界に映る、月明かりの下の青年は、まるで作り物のように美しかった。薔薇のワルツが通り過ぎる。やさしく冷えた水の音がする。わたしは再び口開いた彼の、その綺麗な瞳を見つめながら、世界はとても静かだと思った。


「少し不用心すぎるんじゃない?

「でも中庭よ」

「......だから?」

「...わかった、わかったわよ、お嬢様らしくない行動して悪かっ」




言葉の途中でぐい、と強く肩を掴まれて、視線を絡め取られる。すると、わたしより幾分か背の高い晶の影になって、わたしに月の光は届かなくなった。晶は一度瞬きをして、そっとわたしの頬に片手を滑らせる。


「勘違いしないでくれる?僕はね、きみがお嬢様らしくない行動をしたから怒っているんじゃないよ」

「じゃあどうして」

「わからないの?」

「え、」

「僕がどれだけを心配しているか」


苛立っているのか、心配しているのか、或いはそのどちらもなのか、晶は眉間に皺を寄せたまま溜息をついた。わたしは晶の率直な言葉にどうしていいのかわからず、そっと視線を逸らす。申し訳ない気持ちと、愛しい気持ちが混ざり合って心臓がどきどきする。ふと、晶がわたしの名前を呼んだ。とてもやさしい音が夜の闇に溶けていく。閉ざされていた月の明かりがわたしの頬に降りかかって、思わずわたしは晶を見つめた。帰ろう、と晶が言う。辺りではまだ、薔薇とそよ風がワルツを踊っている、星も相変わらず夜空を駆け回っている。愛しい色をした満月は、恐らくこれからが見頃だろう。しかしわたしは、わたしのために差し伸べられた手に、迷わず手を伸ばした。






021309
(お茶を淹れてもらおう、どうやらきみに話すことはたくさんあるようだから)