残業のつもりのない日の残業ほど憎たらしいものはない。日付が変わっても曇天が続いている空を見遣って、は大きく息をついた。24時間地下鉄が走り、配車サービスが隅々までを網羅するこの小さな島では何時になっても足がなくなることはないが、夜が更ければ治安も危うくなるし、電車もまともに走りはしない。配車サービスも、星4.9/5評価のユーザーであるのもとにやってくる車はどれもサービスの良いものだったが、疲労を抱えて見知らぬ車に乗るのは常に億劫だったし、車内の芳香剤が車酔いを引き起こすこともあった。寒さにかじかむ手を動かして携帯を取り出す。着信通知を無視してロックを外すと、仕事中に返信途中で忘れていた会話がそのまま画面に映し出される。今日帰り遅くなんの?その一行に、今更返したところで、と思いながら、今度は先ほど無視した着信通知を開く。それは想定通り、このメッセージの相手からであった。は小さく苦笑交じりの笑みを浮かべて、会社のビル前を右往左往しながら電話をかける。

『はい』

聞き慣れた、低くて気怠げな声音が途切れたコール音に続く。

「シュウ」
『何だよ』
「良かったまだ起きてた 今仕事終わったんだけどね」
先輩お疲れ様でした~」
「お疲れ~」
「あ、

コツコツと鳴る自身のヒールの音を聞きながら歩いていた足を止め、正面玄関横の社員用通用口から出てきた同僚たちに挨拶をしてそのうちの一人に視線を向ける。何となく携帯を耳から離してマイク部分を片手で覆う。大した意味もないが、前時代からの癖みたいなものだ。視線を向けた相手は人好きのする笑顔でお疲れさんと言ったのち、良かったら送っていこうか、と言った。は笑って首を振った。

「大丈夫、迎え、あるから」
「そっか?じゃあまた明日、おやすみ」
「うん、おやすみなさい」

駐車場へと向かっていくその背を見ながらもう一度携帯を耳に当てる。

「ごめん途中で」
『迎えあんの?』
「ないから迎えにきて それとももしかしてもういる?」
『いるよ お前も見えてる』

呆れたように電話口で微かな笑いを含んだ声がして、ついで道路脇に停められた車のヘッドライトが点滅する。暗闇で遠目では気付かなかったが、近付いてみるとそれは見慣れた車で、運転席には見慣れた男が座っていた。ポケットに携帯を入れて助手席のドアを開ける。嗅ぎ慣れた煙草の匂いを、冷たく吹く風が攫っていく。早く乗れ、と言われると同時にドアを閉めて、シュウとはそのまま挨拶代わりのキスをした。

「お疲れさん」
「激しく疲れた」
「だろうな 飯は?」
「食べてないけどお腹減りすぎて逆に空腹感がない」

シュウが停車していた車を出すと、心地よい速度で走り出す車の音が会話の合間を埋める。クロん家でいいんだよな、と確認するシュウに、は一瞬考えて、うん、と言った。シュウの視線がの横顔に投げられる。はそれを押し潰すようにひとつ瞬きをして、なに、と言った。この時間帯ならの会社からスケアクロウの家までは10分もかからない。

「なあ、お前もクロん家に住めばいいんじゃねーの」
「その話は前もしたでしょ 忙しいときだけ場所を借りれたら良いって」
「強情だな」

シュウが緩やかにハンドルを切って車が右に曲がる。エンジンと窓越しに聴こえる風の音が、静寂をかき混ぜて満たしていく。シュウもも、こうして二人の間に生まれる柔い静けさが好きだった。そうしてはその静けさの中でシュウの呼吸を聴くたび、何とも言えない嬉しさに満たされた。体を重ねたいとか、触れたいとか、そういった性的な欲求がないわけではない。むしろ最近は忙しくて、こうして会うことが増えても身体的なコミュニケーションは殆どないから、欲しいかといえば欲しい。それでも、それを差し引いても満たされていると言えるのはとても幸せなことなのではないか。

「何だよ」
「そっちこそ何笑ってんの」
「別に …ところで」
「うん」
「俺さすがにそろそろシたいんだけど」

シュウが咥えていた煙草を車内の灰皿へ押し付ける。信号が赤になり車が停まると、シュウはその指先での顎を捉え、親指での唇をなぞった。音もなく視線だけが交わって、絡まっていく。どうしようもなく女として目の前の男に惹かれてしまう。せめてキスだけでもとは一瞬思ったが、しかし今触れてしまえばお互いに止めるのが難しいのは明白だったので、触れる代わりに名前を呼んだ。

「シュウ」
「ん?」
「明日仕事休んでもいいかなあ」
「……く、」

押し殺すような笑いを喉に留めて、シュウは青に変わった信号に倣って車を走らせる。木々の向こうにスケアクロウの豪邸が見え隠れしている。時計は午前0時40分を示したばかり。

「どうだかねえ 行っといたほうがいいんじゃねーの」

どうせ明日行ったら休みだろ、と言いながらシュウがスケアクロウの邸宅の正門の前に車を停める。すぐに門が開いて、シュウが緩くアクセルを踏む。は自身の携帯を取り出して液晶画面を操作しながら、そうねえ、と言う。

「行っとけよ、迎え行ってやるから」
「じゃあ明日ね」
「はいはい」

静かにガレージに停まった車からが降りると、エンジンを切りキーを抜いたシュウが一拍遅れて運転席から出てくる。待つ必要はないが、何となく癖でいつも待ってしまうを特段気にすることもなく、ほら行くぞと言ってシュウが歩き出す。シュウに付いていくように歩を進めるは、シュウが開けるガレージから室内へと繋がるドアをくぐってただいまと言う。無意識のそれを、シュウが小さく笑う。

「ただいまってもう普通に言ってんじゃねーか」











夜のリキュールを月の海で
02.16.20