まるで映画のワンシーンのように豪奢な雨が降っていた。水に浸された外の景色を見つめながら、わたしは、ここに来たのは間違いだったかもしれない、と思った。それは、時々降る雨のように、ふとした瞬間にわたしの心を満たす不安だった。世界とわたしとを綺麗に隔離してくれる、窓硝子越しに聴こえる雨音が、子守唄のように耳に心地よい。

、ここにいたのか」

ギイ、と軽く軋んで、第一音楽室の重い扉が開かれる。途端に、廊下から賑やかな喧騒が滑り込んだ。わたしは窓辺でカバーを被ったヒーターの上に膝を立てて座ったまま、軽く視線を向ける。扉を閉めて滑り込んだ喧騒を殺したのは、わたしがここへ来る切っ掛けとなった副生徒会長の蓮巳だった。

「なにか用事?」
「はあ...そうやってすぐ高圧的になるのはお前の悪い癖だぞ。それにここは授業以外立ち入り禁止だ」

そんなことを言いに来たの。そう言ってわたしが再び窓の外へ視線を戻すと、蓮巳は珍しく少しの間、沈黙した。第一音楽室に、雨の音が満ちる。プロデュース科、というものができる。興味はないか。彼にそう声をかけられた日も、そういえば雨が降っていた。大好きだった人間を失って1年近くをぼんやりと過ごしていたわたしには、それは賭けに等しい選択だった。雨の中の帰り道、お気に入りでも何でもないビニール傘の下を歩きながら、わたしの人生にとってどちらを選ぶのが正しくて、どちらを選ぶのが幸せなのか、わたしには少しも分からなかった。ただ、きっと彼なら好きなほうを選ぶといいと言うだろう、と思ってしまう自分には、選ぶ勇気も、覚悟も、何一つ足りていないように思えた。それでも最後には、過去は過去と区切りをつけてプロデュース業を学ぶことを選んでここに来た。それこそが、何者にも染められないわたしの本心に違いないのに、その本心に、今もまだ上手く向き合えずにいる。

「ここに来たことを後悔していないか」
「プロデュース科は楽しいわ。...もしかして、敬人はわたしのプロデュース業の出来に不服なの?」
「それはない。すでに多忙の身である自分自身が、それを一番よくわかっているだろう」

朔間さんのことだ。蓮巳はひどく丁寧に、硝子に包まれた部屋にその音を落とした。わたしは一つ瞬きをして、その音を受け流す。ざあざあと雨が降る。陽射しなどどこにもないのに、それはきらきらと煌めくように美しい。

「それは 余計なお世話よ」
「そうか...いや、大丈夫ならいいんだが、元々は俺が声をかけたことだし、少し、気がかりだったんだ」

邪魔をした、と言って第一音楽室を去る蓮巳の声音は、何一つ絡み合った糸が解けない不協和音のような音だった。わざわざ生徒会やユニットの活動の合間を縫ってまで探して話をしにきた程度には、彼の中でも憂慮に堪えない事柄なんだろう。あっさりと引いたのも、ただ下手に触れて割りたくなかったからだ。心配していることは、痛いほどわかる。それでも、周囲の心配や不安を拭うために気を張っていることにも限界があった。気を張って平気なふりをしたって、わたしの中に潜む不安は少しも消えなどしない。むしろ、覆い隠せば隠すほど、それは色濃く重たくなって、どう扱っていいか分からなくなる。そうして不安は脱皮をすると鮮やかな恐怖になるのだ。

「ふ」

ぱた、と夏服に雫が落ちる。結局わたしは、朔間零を過去に葬るどころか嫌いにもなれなかった。しかし、もう一度好きだと言うほど、勇敢でもなかった。もう彼とのことは過去にして、前に進むと決めたのに、姿を見れば宇宙の果てに捨て置いたような心でさえ揺れてしまう。それが嫌で嫌で仕方がなかった。どんなに避けても、彼のわたしを見つめる瞳が優しいことを、無視することができない。その最後の糸を、わたしはいつも、切ることができない。鮮やかな青のスカートにも、世界にも、止め処なく雨が降る。

「...一人で泣くなと昔から言うておるじゃろ」

突然の声に顔を上げるよりも早く、力強い腕に抱き込まれる。不意に肺を満たすのは、懐かしくて恋しい匂い。低く優しい声が、探した、と言って静寂を部屋の隅へ追いやって、わたしは抵抗するように身動ぎをした。しかし、その腕の力が弱められる気配は微塵もない。放して、と言うわたしの声は、情けないくらい涙に滲んでくしゃくしゃだった。

「放してと言われて放すつもりなら、ここには来ておらんよ」

ざあざあと土砂降りの雨が激しさを増して、第一音楽室の静寂が鮮やかに蘇る。零れ落ちる微かな嗚咽を宥めるように、零の手のひらが幾度も幾度もわたしの頭を撫でる。、とわたしの名前を呼ぶ彼の声は、昔と少しも変わらない、長い時を経た宝石みたいに美しい音をしていた。

「避けられているのは分かっておるよ。...それでも、おまえが元気にやっているなら、それでいい、と」

緩やかな心臓の音がセーター越しに伝わって、無意識にわたしはその音に耳を澄ませる。ほんの僅かに手を止めて、零が小さく笑う気配がする。ぎゅう、とヒーターの上に座ったままのわたしを抱き寄せる腕が強まって、呟くような囁きが、豪雨の中生まれては飛沫のように消えていく。

「...元気なら、おまえが”俺"を許して側に寄ってきてくれるまで待とうと思った」
「勝手にいなくなったのはそっちでしょう」

どん、と今度こそ零の体を押しのけて、わたしはあらゆる感情を引っ張り出してくる目の前の赤い双眸を見据える。風が吹いて、窓硝子に雨飛沫が叩きつけられる音が、ふたりの合間を裂いていく。

「いなくなったって、よかったわよ」

「でも、それなら、もう好きじゃなくなったって、どうしてちゃんと別れて、くれなかったの」

頬を伝いもせず、睫毛の先から溢れる火のように熱い涙が、音を立ててスカートに落ちる。視界が滲んで、嗚咽が漏れる。何の涙なのかもはやわたし自身にも分からないまま、ただ、自分の中にある、目の前の男への愛情だけが煌々と煌めいて燃えていることだけがよく分かる。零は、何も言わなかった。するりと伸びてきた手を避けようとするわたしを捕まえて、そっと睫毛の先を撫でて雫を払う。拭っても止まない雫の合間に僅かに見えた零の双眸は、揺らいでいた。宇宙に満ち満ちている孤独を詰め込んだベテルギウスの双眸が、豪雨のなか、第一音楽室で微かに歪む。

「我輩の我儘だ。おまえを一度手放したら もう二度と触れられないと思った」

独り言のように唇の合間から滑り落ちた零の声音は今までに聞いたどんな歌より悲しい響きをしていた。窓に打ち付ける雨が反射する零の瞳は、泣いてなどいないのに、泣き疲れたそれのようだった。

「何千回怒られてもいい、たとえ何万回嫌われても、おまえには我輩の傍にいてほしい、...なんて我儘なことを願っていた」

零の声を飲み込むブラックホールのような沈黙から、わたしは逃げるように視線を外す。グランドピアノの上に、綺麗に旋律を奏でるような雨が映っている。いいや、と、静かな零の声が、音楽室の防音壁に拾われることもなく溶けていく。

「いまも、そう、思っておるよ」

零はそう言って泣きそうに笑った。思わず向けた視線を上手く逸らせないまま、わたしの双眸から睫毛を伝って再び大粒の雫が落ちる。ああ、もしかしたら、彼もずっと、最後の糸を切れずにいた一人だったのかもしれない。



零の指先が再び涙の溢れるわたしの目元を拭う。伏せられていた双眸が、まっすぐにわたしの瞳を捉える。

「もう一度、我輩と...ちゃんと向き合ってはくれぬか」
「な、によそれ...今更」

豪、と風が鳴る。零の指先が、そっとわたしの唇に重なって言葉を奪う。得体の知れない怪物のような不安が滲む音楽室で、、と美しい歌のようにわたしの名前が紡がれる。

「あと幾つ理屈があればいい?あといくつの謝罪があれば、おまえは安心して自分の本心に従える?」

ベテルギウスの双眸は、雨を受けて、凍った灼熱の炎のような色をしていた。零の指先がひどく恋しそうにわたしの唇を撫でる。わたしは反射的に零から視線を逸らした。しかしそこへ、その指先でわたしの顎を軽く持ち上げ、わたしの視線を捉える零の双眸が、大切なものを探すようにわたしの心の在りかを聞いてくる。

「......それとも、理屈などどうでもよくなるくらい、もう一度おまえを奪ってしまおうか」
「零」
「冗談じゃ。...だが、こうしておまえが泣くのをただ見守って待つことは、我輩にはできん」
「......」
「我輩のことを、許せ、とは言わぬよ」

でも大切に思っていることを、分かっておくれ。長い睫毛を揺らして、零がそっと目元を緩める。こぼれ落ちる涙の熱に浮かされながら零の名前を呼ぶわたしに、うん、と返事をする。

「今度は、ちゃんと、言って」

ひとつ、瞼の上に口づけが降る。第一音楽室に、一瞬の静寂が鮮やかに満ちては雨音に散るように霧散する。

「愛しておるよ、おまえが遠くで笑っているのが、さみしくてさみしくて、死んでしまいそうなくらい」
















ぼくらは祈りの言葉を持たない


030619