ここでは歌うように雨が降る。青々と茂る草葉に雫が落ちて、鈴のような音が溢れるのをガラス一枚隔てて眺めながら、ひとつ、瞬きを鳴らす。背後から近付くコーヒーの香りに振り返る。壮年の美しい男が人好きのする笑みを浮かべて差し出すマグを受け取り、わたしはもう一度瞬きをした。

「君は幾つになっても美しいね。いや、美しさが増していくようだ」
「そういう優しさは大事よね、貴方の孫にも少しくらいそれがあってもいいのに」

どうしてその文化を根付けてくれなかったの。熱い湯気を鼻先に感じながら数回マグに息を吹きかけて、ゆっくりと細心の注意を払って液体を啜る。柔らかく蜂蜜の甘みが舌先を滑って喉を落ちる。この世界で、わたしにとって最も美味しいラテを淹れてくれるのは、このフランス人だ。本当ならどこかの美しい物語みたいに、愛する恋人が淹れるコーヒーが最も口に合う、とでも言いたいところだが、残念ながら彼はブラックでしかコーヒーを飲まないし、わたしはブラックだけは飲めない。ぱたぱた、ざあざあ、じゃーじゃーと外で雨が歌う。わたしとフランス人はコーヒーを啜る。小さく笑う気配が、物に溢れて居心地の良いリビングに揺れた。意地の悪いひとだな、という言葉がコーヒーの湯気に混じる。

「慧にもあるだろ」
「...貴方こそ意地悪よジャック」

ソファの右側に腰掛けるジャックがひとつ大きく笑って、無造作に足を組む。雨粒が幾度も幾度も窓を叩く。わたしはソファの左側でもう一度コーヒーを啜って、何を言うでもなくマグ越しにジャックを見遣った。それはとても微かな視線だったが、百戦錬磨であろうジャックがそれを逃すはずもなく、わたしの控えめな視線は大胆に拾われる。ジャックは昔からこうだった。そして彼の孫も。真っ直ぐ人の視線を受ける彼らの青の瞳が、わたしは随分と昔から好きだった。

「で」
「あ、嫌な予感」
「慧とはどうなんだ」
「どうって」
「さすがにもう寝たよな?」
「...」
、頼むからもう寝たと言ってくれ、あいつはバカなのか?何年経ったら」
「寝たよ」

時計の秒針の合間さえすり抜けて、わたしの声が酷く澄んで聞こえた。ジャックが声を失ってこちらを凝視する。雨音がすぐにわたしの声の余韻を押し流す。

「わしが言ってるのは横に並んで寝るということではないぞ」
「分かってるわよわたしを幾つだと思ってるの」

抱かれた、喰われた。わたしはそれだけ言って、コーヒーを喉に流し込む。愛された、とは恥ずかしくて言えなかった。ジャックはしばらくの間ソファの右側で何も言わなかったが、その感情は肌を伝ってくるようだった。むしろ、言葉がない分、彼の純粋な喜びがよく分かる。ジャックはわたしと慧をとてもよく愛してくれる、私たちにとって最も愛すべき共通の人間だ。本来なら言う必要のないことを、こういう大人同士の会話でうっかり話してしまうのもそのせいだった。

「よしよし、さすがわしの孫」
「なんだか不思議な」

時間だった。止む気配の無い雨の旋律を耳に、窓の向こうで揺れる草木の合間に現れたジムニーを目に、わたしはゆっくりと瞬きをする。スローモーションのような時間が、リフレインする。肌が触れることなんて幾度もあったのに、あの夜は、慧の肌に触れる度、初恋みたいにどきどきした。戸惑う様でいて真っ直ぐで、愛情深くて無愛想なその青い瞳に見つめられると、内側を見透かされそうで恐ろしくなるのに、名前を呼ばれて指先を絡めると、誰と過ごすどんな時より安心した。わたしより随分と大きな体で覆い被さって、緊張する、と照れて視線を逸らした彼の背を、わたしの涙を、照らして包む月明かりは、やがてわたし達の羞恥や緊張をすべて溶かしていった。あの夜は、大層月の美しい夜だった。慧はとても上手に自然に触れる優しい青年だ。あの日が月の美しい夜だったのは、決して偶然などではなかったに違いない。柔らかい月明かりの下で息を切らせて、、とわたしを呼ぶ彼が落とした最後の口付けを忘れる日が、この人生のうちにくるのか分からないことが、嬉しいと同時にとても恐ろしかった。もしも、

「慧がわたしに飽きたらと思うとすごく怖いな」
「生まれた時から知ってる奴に今更それはねーよ」
「おう、おかえり慧」
「ったく」

何の話してんだ。開けたドアを無造作に閉めながら、慧は呆れた様子でわたしとジャックを一瞥すると、その足でそのままキッチンへと向かっていく。コーヒーを取りに行ったんだろう。キッチンを眺めながら、ずず、とコーヒーを啜る。ちらりと見遣ったジャックとばちりと目が合って、どきりとする。全てを知っているかのような双眸が、深く澄んだ湖の色でわたしを捉える。一瞬、静寂が満ちて、わたしたちは温かいコーヒーの香りの中で雨が先程より随分と強い音を奏でて大地を打っているのを聞いた。特徴的な笑みを鳴らすジャックが至極楽しそうにその青を細める。

「カワイイなあ。」
「じじい、次口説いたらカトラに言いつけるぞ」

そう言って慧はわたしの横、ソファの肘掛へとどっかと腰を下ろした。口元に運んだマグの上から覗く双眸が、とても静かに彼の祖父を射ている。あの夜以来、しばしば彼は普段見せない瞳をするようになっていた。それが、良いことなのかどうかは分からないけれど、先日訪ねてきた昔から彼をよく知る彼の友人は、それをとても良いことだと言っていたから、とても良いことなんだろう。不思議なことに、自分だってかつては10代だったはずなのに、17歳の彼らはわたしにとってまるで宇宙の端っこのように未知の生き物だった。そして、きらきらとして美しい。そんなことを思いながらコーヒーを啜っていると、ばちり、とその青い双眸と不意に視線がかち合った。愛情が青く色づいて揺れる。

「なんか、照れる...」
「はあ?何でだよ」
「ンッフッフ」


ひとつのこらずオートクチュール



030619