「ローワン」
「あ、さん」
「誠は?」
「嘘界少佐なら仮眠中です」

微かな電子音と共に空いた扉の先へ足を踏み入れて、は大きく溜息をついた。ローワンは自分の作業に戻りながら、に「コーヒーでも?」と声をかける。歳はローワンの方が上だけれども、階級は彼女の方が上だ。上司に当たるので、粗相はできない。とはいえ、有り難いことに彼女は自分を可愛がってくれているようなので、さほど緊張することもない。ローワンが書類を抱えながら振り返ると、は少し悩んだ後、僅かにはにかんでイエスと言った。

「どうぞ」
「ありがとう、嬉しいわ」

眠たげにコーヒーを啜り、はもう一度溜息をつく。時計を探して視線をさ迷わせると、すかさずローワンが、「3時です」と腕時計を確認しながら教えてくれた。気の利くいい人なのに、上司に恵まれないローワンは、の憐れみを買っている数少ない存在である。彼の直近の上司は嘘界とダリル・ヤンだが、この度そこへダン・イーグルマンが加わった。嘘界はともかく、我が儘一杯に育ってきたお山の大将ダリルヤンと、鬱陶しすぎるほどの熱血漢ダン・イーグルマンのタッグは、変わり者の多いこのGHQにおいてもまず最悪な組み合わせである。特にダリル・ヤンは世話が焼ける点においては他の追随を一切許さぬ悪魔のような子供で、は彼が好きではなかった。また、もう一方の熱血漢についても同様に、何かと距離が近いのを苦手に思っていた。何を隠そう今時分も、寝る直前に廊下でダンに出会って晩酌に誘われたのを逃げてきたのだ。

「眠いわ」
「お休みにならないので?」
「部屋に帰って寝たいのは山々だけど、さっきあんたの上司の熱血漢にデート誘われて逃げてきたのよ。戻る途中で会うのは御免だわ」
「デ」
「地位はあるけどあんな無粋で脳みそまで筋肉みたいな人、あたしはイヤよ。」

カップを持ちながらそう呟いて小さく口を尖らせたに、ローワンは一瞬目を瞠って、そうして思わず吹き出した。なに、とが驚きに目をしばたかせる。

「すみません、さんがあんまり本気で嫌って言うから」
「本気で嫌なのよう」
「しかし、嘘界少佐がいるんだからイーグルマン大佐は関係ないのでは」
「ローワンそれ、本気で思ってる?」
「はい?」

それは間違いだ、とは思った。カップをテーブルに置いて椅子の背もたれに大きく寄りかかると、辺りに漂うコーヒーの香りが鼻先を掠める。思わず溜息がこぼれた。地位でも体格でも勢いでもダン・イーグルマンに劣る嘘界が、その彼に対して一体どんな牽制になるというのだ。色恋沙汰なんて押しの強さで勝敗が決まるようなでたらめ勝負では、頭が良くたって意味がない。だからこの場合はローワンが言うような、嘘界がいるから事態が好転するなどということは起こりえないし、それに、そもそも、降りかかる火の粉は自分で払わねばならないものだ。

「まあ、そうね、いざとなったら誠に吊るしてもらいましょうかね」
「え」
「コーヒー、ご馳走さま」

いえ、と小さくはにかんで仕事の手を一瞬止めるローワンに頬を綻ばせながら、は一度伸びをして立ち上がった。帰るんですか、と声をかけたローワンに、今度はがはにかんで、奥の扉を指差す。なるほどと笑うと、ローワンは、おやすみなさい、と言って再びデータ整理の作業に意識を戻していった。その後ろを抜けて、は奥の部屋の扉をくぐる。電子音の後に扉が閉まると、そこは僅かの電子音以外何も聞こえない青い部屋だった。海沿いに取られた窓からは、美しい月と、それに照らされて煌々と煌めく海が見える。絶景だ、とは思わず感心する。窓を開ければ、きっととても綺麗な波の音がするんだろうが、残念ながらここははめ込み型の窓で開くことはない。足音を潜めて、寝椅子の上で眠る嘘界にそっと近寄る。アイマスクをしていて確かめることはできないけれども、恐らくは、もう目を覚ましているはずだ。一歩手前で立ち止まって様子を窺う。散らばる紫の癖っ毛に、白い肌。細いけれどしっかりとした肢体が僅かに動いて、指先がアイマスクを押し上げる。嘘界の双眸は眠たげではあったけれども、傍に立つを迷うことなく真っ直ぐに見据えていた。

「ああ、貴女でしたか…
「ごめん、起こしちゃった」
「構いません」

一つ欠伸を噛み殺しながらそう呟く嘘界は完全にアイマスクを外して傍の棚に放り投げる。

「いま、何時ですか?」
「3時...だったから、ちょい過ぎくらいかな」
「なぜそんな時間にここへ?」

寝椅子の上に片手で頬杖をついてを見上げる嘘界に、は一瞬息を詰めたのち、すぐに、寝れなくて、と普段の調子で苦笑する。しかし、彼女の思わぬ反応を見逃さなかった嘘界は、を見詰めたまま僅かに双眸を細めた。沈黙が、漂う。ゆらゆらと、天井に反射する波の光が揺れては煌めく。

「何か、ありましたね」
「あったといえば、あったし、なかったといえば、なかったわね」
「...まさか他の男のところへ行った帰りとかじゃないでしょうね?」
「ちょっと、あんな人のところ行くわけな」
「あんな人...ですか。ふーん...」

しまった、と思ってが再び口を開くより早く、ダン・イーグルマンでしょう、と嘘界は静かに言った。を見据える赤い瞳が、暗闇の僅かな光を吸って酷く深い色をしている。それは、幼い頃に庭で陽に翳したフサスグリのような赤だった。古き良き時代の思い出に少々センチメンタルになりながら、は髪を解きジャケットと靴を脱ぐ。

「頭が良い恋人も考えものね」
「そんなことを言わないで下さい」

諦めたように笑ってそうこぼし、もう一つの寝椅子へ向かうに、嘘界は大きく苦笑して身を起こす。そのままぐいとの腰を引いて、彼はをその腕の中に抱き込んだ。背後から急に抱き寄せられたは思わず小さく悲鳴を上げる。しかし、それはすぐに部屋に充満していた沈黙に押し潰されて消えていった。きらきらと、天井で波が揺れる。青白い光が二人の影を暴いていく。回された腕の確かさと、背中に伝う嘘界の体温に、の心拍数はどんどん跳ね上がっていく。

「...誠」
「折角ですから」

一緒に寝ませんか、と、そう言った嘘界の言葉は伺いの体をなしていたものの確信に満ちていて、は小さく笑う。腹の辺りに回された彼の手に自らの手を重ねて、彼女は嘘界を振り返った。嘘界はの手を引いて寝椅子の上に引き込む。ばさりと毛布をかけ、様子を窺うの頬を指でなぞり、一度だけ額の上にキスをした。散らばる髪の上に月明かりが差し込んで、まるでガラス細工のような煌めきが生まれている。ゆっくりとの髪を梳いてやると、ひんやりとした髪が酷く心地よく指先を流れていく。不意に、ひとつ欠伸をしたが小さく身じろぎして、ただでさえ狭いスペースに寄せ合っている嘘界の肢体へとさらに身を寄せた。

「きみはこういう時甘えん坊ですね」
「あなたはわたしに優しいからね」
「それはどうだか知りませんが...まあ、今のうちに甘えておきなさい。そのうち、」

静かな呼吸をひとつして、嘘界はそこで言葉を止めた。腕の中で擦り寄ってくるの意識はもうほとんどない。言葉を紡いだって届かないかもしれないし、何より彼女の睡眠を妨げることになりかねない。幾ばくかの合間を眺めて、嘘界は僅かに眉根を寄せた。自分はこの子と、もうそんなに長くはいられないかもしれない。特に理由もなく可愛がりたくなったり、傍に置きたいと思ったり、誰かの手に触れさせるのが心底嫌だと思ったりする相手など、恐らくもういないだろう。彼女の存在は特別だった。しかし、彼女の存在のために目的を捨てることは出来ないし、捨てようとも思わない。自分の目的の達成だけが求める結果である限り、自分以外誰をも幸せにすることなどできないことは、始めから分かっていた。煩わしくなったら、自分の手で彼女を終わらせればいいとも思っていた。でも、せめてもう少しだけ。或いは、彼女の終焉を求めないで済む可能性を。嘘界はを至極軽く抱き留めて、青い影の揺れる静寂のなかに目を閉じた。


ターファル


2011