それは単なる出来心だった。居候先のおじの、一度見てこいよ、というその言葉に釣られて、わたしは幼馴染であり恋人でもある少年の通う中学校へと足を運んでいた。緩やかな風と柔らかく傾き始めた陽射しの中、辿り着いた青春学園大学付属の中学校には、大量の制服姿やジャージ姿の生徒らがいて、彼らはみな一様に部活動やら委員会やらに精を出している。それは日本では珍しい光景ではないが、しかし、中学生までを海外で過ごしていたわたしは、実際に日本の中学校に足を運んだことがない。先のおじの言葉も、恐らくはそれを含めてのものであったのだろう。できるだけ辺りを見回し観察しながら、生徒の合間を縫ってテニスコートへと向かう。徐々にボールの跳ねる軽やかな音が耳をくすぐり始めて、わたしは思わず口許を緩めた。この音を聴くと、いつも彼を思い出す。わたしの、世界で一番愛しい人。

「ホレホレーッ!休んでる暇はないよ越前ーッ!!」
「ちょっ」

カシャン、とフェンスに片手を掛けて、見つけた目当ての存在を見遣る。しかし文句をたれながら、それでも面白そうにテニスをする少年は、いくら見つめてもこちらには気が付かないようであった。風が吹いて、鮮やかな翠の匂いとグラウンドの土の匂い、そしてエアサロンパスの匂いがする。コートを見渡すと、恐らくはレギュラージャージであろうジャージを着た数名と、その他にも多くの生徒がテニスに励んでいる様子が窺える。みんな一生懸命だ。一度きりしかない人生を、今を、必死に生きている。まさにそんな風景に、わたしの胸は不意にきゅうと締めつけられた。眩しすぎて、息苦しい。吹き抜ける風に隠れるように、切なさを追い出すために息を吐く。わたしにも、こんな時間はあったはずなのに、こんな仲間がいたはずなのに、どうしてこうも記憶は色褪せてしまうんだろう。

「あっ!リョーマ様よ!桜乃!」
「えっ?あっほんとだ」

不意に横から聞こえてきた黄色い歓声に、そして響いたその名前に、わたしははっと顔をあげる。制服を着た女生徒と、テニスウェアを着た女生徒が、テニスコートに熱い視線を送っている。黄色い歓声の横では目立つなと思いながら、わたしはじりじりと距離を開けるよう努めたが、それより先に大きな影がわたしの上に覆いかぶさった。見上げると、髪を立てた大きな少年がフェンス越しにこちらを見ている。精悍な顔立ちに、逞しい体つき。わたしが声を発する前に、少年は小さく小首を傾げてわたしの顔を覗き込む。

「あれ、あんた、見ない顔だな」
「はじめて来たので」
「ふーん。偵察?」
「偵察?なんの?」
「なんのって、テニスに決まってんだろ?」
「ああ、わたし、」

そういうのじゃないんで、と言いかけて、不意の陽射しに目を細める。目の前の少年がフェンスに背を預けるように寄りかかると、僅かに晴れた視界の先で、コートから出てくるあの少年が見えた。腕のリストバンドで汗を拭った彼は、一瞬足を止めてはっきりとこちらを見る。おっ、と目の前の少年が小さく声を上げる。ポーン、ポーン、と軽やかなボール音に大勢の声が入り混じった喧騒が、一気に耳元から遠ざかった。心臓の音がする。わたしの心臓の音が大きく体の中で反響して、わたしはぎゅっとフェンスを握る手に力を込めた。毎日顔を合わせている恋人に見つかっただけなのに、なぜか、わたしは酷く緊張していた。

「よう越前、お疲れ」
「何してんスか桃先輩」
「ん?ああ、珍しいお姉さんがいるんで偵察かと思ったんだけど、違ったみてーだ」

越前と呼ばれた少年、少女らにリョーマ様と呼ばれた少年が、フェンスを隔ててわたしを真っ直ぐに見据える。射抜くような視線。少しの沈黙のなか、暮れかけた陽射しが、じわじわとわたしの指先を温めていく。その合間に、「桃先輩」がコーチに呼ばれてコートに入っていった。それを軽く見送って、リョーマはもう一度わたしを見遣る。鋭くて、でもとても澄んだ綺麗な双眸が、訝しげにわたしに向けられる。

「で、さんは何してんの」
「おじさんが見てこいって言うから何となく」
「ふーん?」
「何よ」
「別に...」
「ねえ、リョーマ」
「ん」
「中学校、楽しそうね」

努めて明るく、普通の感想のように呟いたわたしの言葉に、しかしリョーマは何の言葉も返さなかった。ただ、僅かに目を瞠って、そうしてわたしを見て、それだけ。少し離れた木陰からこちらを覗いている先程の女生徒のうちの一人の憤っている声が僅かに聞こえる。しかし、今のわたしには、わたしの中にある切なさを押し殺すこと以外に使える労力など微塵もなかった。羨ましい、と思った。それだけが、わたしの体に渦巻く感情であった。良い仲間と共に何かに必死に打ち込んで、そうして誰かに想われて、何でもない日常を未来への期待と共に過ごしていく。それが彼の生活。そしてその輝かしい日々の中に、わたしはいない。


「来たいんなら、また来れば」


ジャージのポケットに両手を突っ込んで、不意にフェンスの向こうでリョーマが言う。ぶっきらぼうだけれど、それが彼の精一杯の言葉なのだと彼の表情から察すると、わたしは思わず吹き出して、そうしてその優しさに微笑んだ。

「ありがとう」
「ドウイタシマシテ」
「何よそれ」

気持ちの伴わない様子で返すリョーマにもう一度笑うと、彼は片手をポケットから出してひらひらと振りながら、コートの方へと戻って行った。その背に別れの挨拶を投げかけるわたしの声を、風が拾って流していく。リョーマが軽く振り返る。ボールの音も掛け声もチャイムの音も静まることはなかったけれど、しかし何物も彼の声をわたしから奪うことは、出来なかった。

"See ya at home, handsome."
"...Bye, gorgeous."





この手で触れてもよいかしら




100312