漣のように風に揺れて地面に打ち付ける雨の音がする。珈琲の香りが漂う室内は温いが、肌に触れる床も体重を預けるものもひんやりと冷たい。は緩く肩先で撓んで波を打つ髪を片手で耳にかけて、そっと指先で自身が体重を預ける赤い装甲を撫でた。機械に詳しいわけではないが、特段機械が嫌いな訳ではなかった。むしろ、好きな方だと言っても良い程度には、好奇心を注いでいるつもりだった。しかし、の指先は、機械とは真逆の温度で、柔らかい。

さんはどうして電脳化しないんですかー?」
「...煩わしいのは苦手なの」
さんは機械が嫌いですかー?」
「そんなことないわ、ロジコマのこともだいすきよ」

「ありがとうございまーす!」
「随分と呑気なやつだな」
「バトー」

部屋の入り口で一つ笑ってから、バトーは随分と大きなその体を揺らして豪快に歩み寄って、の足元で立ち止まる。その体からは、外の冷えた温度と共に柔らかな雨の匂いがした。はバトーを見遣ってひとつ、静かに瞬きをする。酷く美しい沈黙の合間を縫って、バトーの腕がを抱き上げる。それは、いつの間にか言語を必要としない至極当たり前のやり取りとなっていた。

「お前、体冷やしすぎじゃねえのか」
「そうかも 帰ったらお風呂に浸かりたい」
「お いいねえ」
「一緒に入るとは言ってないわよ」

車でバトーの家へと向かいながら、車体を打つ雨音のすぐ横で他愛もない会話をする。ケチ臭いことを言うなというバトーはきっとが快諾しない限りは浴室へ踏み込まないし、お風呂くらいゆっくり浸からせてというはバトーが共に浴室にきても追い出したりはしない。はそっと一度、運転席のバトーを盗み見て小さく笑った。大きなからだで肉弾戦では凶悪ささえ滲むと聞くのに口達者、頭も回るしおどけた一面も見せる目の前の男はまるで大きな犬のようで、腹の底から滲むような愛おしさがこみ上げる。道なりに進んでいた道路を右へ曲がると、その先の信号が示す通り、車は緩やかに減速して止まった。ざあざあ、ぱたぱたと雨粒の音がする。

「バトー」

の声に、バトーは無言のまま僅かに視線を寄越す。

「人間は好き?」

そう一言、まるで自問するかのように尋ねたの言葉の余韻をかき消す音は、しかし車が目的地に到着して停車するまで、ついに一つも生まれなかった。いつの間にか、滲むような愛しさも心臓を握り潰すような悲しみに変わってしまっている。いつものようにの半歩後ろをバトーが歩み、家へと滑り込むと、バトーは一度周囲を見回して、そっと一度の頭を撫でた。安全の確認が取れた合図だ。

「煩わしいだなんて思ったことは一度もねえよ」
「でも電脳通信はできないわ」
「電話でも何でもすりゃあ良いだろう」
「そういうことじゃない」

はバトーをぴしゃりと見遣って、その足を浴室へと向けた。ジャケットを脱いで、ソファの背凭れに掛ける。浴槽にお湯を張りながら、その縁に腰掛けて、そういうことじゃない、ともう一度胸中で呟く。人間はとても脆くて不完全だ。他者と全く同じものを見ることもできないし、物事を正確に記憶することはおろかそれらすべてを長く保つことさえ儘ならない。紙切れ一枚で肌は切れるし、病に冒されても血を流しても老いても死ぬ。シームレスに他者と繋がるデータの世界にも、老いや死から遠い世界にも、どこにも行けない、閉鎖された肉体に依存するいきもの。義体化により強化された存在に狙われれば、ほとんど勝つ術はない。

「こうやって生物は淘汰されるのかもね」

浴室の入り口でを見ていたバトーが、その声を追うようにゆるりと手を伸ばす。頬から顎先へと滑るバトーの指先。注がれるバトーの視線。は何も言わず、唇に、首筋に落とされるバトーの口付けを享受しながら、微かに一度、バトー、と目の前の男の名前を呼んだ。

「こんな不完全で厄介なもの じきに手に余るわ 今だって」

バトーの手が勝手を知ったようにの着衣を乱す。浴槽に溜まり始めたお湯がじゃばじゃばと音を立て静寂を割り、雨音も、思わず零れた微かな嗚咽も、すべてを掻き消していく。

「今だって自分の身一つ自分で守れない」
「だから何だってんだ」

脱がせた衣服を浴室の外に放って、バトーは床に膝をついたままを見遣った。眠らない眼が、表情の見えない双眸が、ただだけを見据えている。その目に反射する自分を、は見ることができなかった。

「お前が不完全だと?」

ぐいと腕を引かれて、は息を詰める。間近に迫ったバトーの双眸に負けて、何とか逃れようとしていたがバトーの額に自身の額を乗せると、バトーは顔を上げてそのままの唇を自身の唇で塞ぐ。酷く扇情的な音をわざと立てて、そうして空いた手での柔い乳房を掴んではその感触を楽しむように揉んだ。義体とは明らかに違う、柔らかく血の通った肌を、バトーはいつも酷く尊いもののように思っていた。血の通った、本当の肌と肉。白くて、触れると微かに震える、愛しい女の体。それがいま、不完全と名付けられてその価値を奪われようとしていることが、だからバトーは許せなかった。の上がった息が浴室に響く。

「お前の体はどこもかしこも、お前だけのものだ」
「バトー、」
「お前の記憶は誰も見れない お前の思考も 意識も 誰にも触れられない」
「わかってる」
「何を?」
「あ、」

浴槽の縁を熱い湯が流れての足を伝っては落ちていく。熱い。するりと縁から腰を上げ、立ち上がったを、バトーはやはり床に膝をついた姿勢で仰いだ。片腕を掴まれたまま、振り返って彼女が蛇口をひねって湯を止めるのと、バトーが口を開くのはほとんど同時のことだった。

「人が命掛けて守ろうとしてるモンを雑に扱うんじゃねえ」

掴まれていた手をおもむろに放される。浴室を出ていくバトーの大きな背を見送り、は少しの間一人でそうして佇んでいた。ぴちゃん、と雫が落ちる音が酷く浴室に響き渡って、細く刺すような余韻が耳を突く。体を洗い、熱い湯を頭から浴びて、湯船に浸かる。わかってないわ、は先ほどのバトーを思い出しながら、胸中でそう呟いた。バトーは分かっていない。誰にも触れられないからこそ、替えが利かないからこそ不完全なのに。ああ、この感情や思考を、そのままバトーに渡すことが、できたなら。そこまで考えて、はおもむろに浴室を出た。少し冷えた空気が、湯で温められた体を冷やして心地よい。バスタオルで雫を拭いながら、下着を脱衣所に持ってこないまま風呂に入ってしまった、と思ったが、体を拭いたタオルを羽織ろうとして、ふと持ってきた覚えのない下着が目についた。バトーが持ってきたんだろう。足音も気配もなく置いていくのだから、困った男だ。

「良い眺めだな」
「バトーさんは白が好きなの?」

ソファに掛けて酒を飲んでいたバトーがにやりと笑う。は浴室への入り口で壁に寄りかかりながら、ゆったりとソファにその身を沈めるバトーを眺めた。少し離れたところから、バトーを見るのが昔から好きだった。彼の体を、本能を垣間見せて、時に懐かしい思い出を眺めるような、空腹を満たす動物のような、自分のものと言い張る子供のような、双眸で声で態度で扱いでを抱くバトーを美しいと思ったことを、まだは一度もバトーに伝えたことがない。果たしてこれから伝える日が来るかもわからない。バトーは全身義体の人間だ。いま、そして幾度もの夜に美しいと思ったその体は、バトー本人のもの、と呼べるのか。彼が生まれ持ったものを、本人と呼ぶなら、その体は本人のものではない。しかし、彼が所有し扱うものを、本人と呼ぶなら、その肉体はどれほど世界に有り触れたとしても、本人のものということになる。バトーの肉体は、バトーのものなのか、考えるほど分からなくなって、言うべき一言かどうか判断ができないのだ。一度でいいから、バトーに会いたいと思った。そしていつも、このことが、の心を酷く不安にさせた。バトーは、バトーだ。それは分かっている。しかし、自分や自分の周囲の人間ほど正確に彼を定義できないことが、はとても悲しかった。この感情が薄れるのなら同じスタンダードに乗るべきかとさえ思う。

「何かバカなこと考えてるだろ」
「考えてないわ」
「いや、考えてるね」
「覗けないくせに」
「生身の人間の筋肉の動きを読むのは簡単だ」

ソファに座るバトーの上へ、するりと跨ったの白い太腿を撫で上げて、バトーはそう呟いた。嫌な人、は瞬きと共に視線を落としながら返す。思考も感情も読まれることはない。覗けないくせに、そう強気に言ったものの、バトーがの思考や性格、癖を文字通りサイボーグのように把握していることも、はよく分かっていた。視線を合わせたら気付かれる。言うのを躊躇うバカなことも、

「そんなに俺のことが好きか」

口角を上げてバトーが笑う。は目を瞠って息を詰めた。深まる夜のしじまを割って、酷く落ち着いた声音でバトーがの名前を呼ぶ。

「さっきから何不安になってやがる 同じ思考を共有でもしなけりゃあ信じられねえか」
「あなたには分からないわよ」
「なんで」

の背中に手を回して下着を外しながら、バトーはの心音と体温、呼吸を見てはっとする。ぽた、とバトーのシャツに雫が落ちるより早く、ぐい、とバトーはをその腕の中に抱き込んだ。何をそんなに意固地になっているのか、バトーには理解できなかった。しかしそんな、データではない、不確かな揺らぎがとても愛しくて、いつだってバトーはそれを傍らで見てきた。自分よりずっと脆くて、世間知らず、柔らかくて、何一つ替えが効かない個体。

「お前が話さねえなら俺が話す」
「何を」
「俺がお前に惚れてる話さ」
「...」
「何だ、聞きたくないのか」
「......どちらが失われても悲しいのなら出会う意味なんて」
「出会っちまったし惚れちまったんだからしょうがねえだろう」
「...バトー」
「お前みたいな生身の人間がサイボーグに敵うわけねえが、それがどうした。お前にゃお前に惚れてるサイボーグがついてるんだぜ」

地の果てだろうが地獄だろうがお前を守ってやる。熱を持ったの頭を軽く撫でて、バトーはの顔を上げさせた。宝石のように光を反射する雫に満ちた双眸が、バトーを映している。綺麗だ、と思った。

「だが、お前の心とは、お前が戦え」

指先での涙を拭うバトーを見上げて、は小さく苦笑する。不安に駆られて生身を捨てるのは、どうやら却下のようだ。

「バトー、わたしの記憶や思考、見たいと思わないの?」
「お前やっぱりバカなこと考えてたんじゃねえか...」
「あなたは生身も義体も経験済みでしょうけど、わたしは生身の自分しか経験がない」
「サイボーグの経験をする必要がどこにある?必要なら毎日日記を書いてくれ、あとで読む」
「あなたね」
「もういいだろ、そろそろお楽しみの時間だ」
「あ」

バトーが首筋に顔を埋めて、柔らかな乳房を鷲掴んで揉むと、堪えきれずに漏れる声が吐息とともに室内に響いた。の癖は、ほとんど把握している。しかし、機械ではないその体は、想定通りに変化することのほうが稀だ。彼女の気分だったり、体調だったり、その時彼女が欲しいものは様々な要素が大きく影響する。何度も啄ばむように口付けを繰り返しながら太腿に手を這わせて、に腰を上げさせる。内股を撫でて下着の合間から手を入れて、バトーは一瞬手を止めた。唇を離して、を覗き込むその表情は嬉々としている。

「珍しいな」
「バカ」
「痛かったら言えよ」
「我ながら こんな凶暴なも、の よく...~~~ッ」
「は...、好きだろ?」
「............好きじゃなかったら してない」
「いいね 素直が一番だ」
「好きよ」
「......」
「バトー 愛してる」
「...毒薬みてえな女だなお前は」
「あなたは、劇物みたいな、男だけどね」

上に乗るの腰に手を添えて、彼女が自身の上に腰を落としきるまで支えながら、バトーは口角を上げて笑った。不安がるくせに疑うことはない、真っ直ぐ自身に向けられる彼女の感情が擽ったくて堪らなくなる。それから何度も、バトーはの女の部分を引き摺り出して泣かせてはその体に自身の欲望を注いだ。



ラスト・イノセンス




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