を追うポインターボーイ






あつい。グダグダとうだるような真夏日に はごろごろとベッドの上を転がる。視界に飛び込んだ雲ひとつ見当たらない空は、確かに爽やかな夏を彷彿とさせる快晴だった。しかしこれは人工的に作られた偽物だ。ちくしょうめ くだらない、そう呟いてもう一度寝返りを打つと、丁度ドアを開けて部屋に入ってきた男と目が合った。青いつなぎに短い髪、強い双眸。はその衣服の下に隠された力強い肢体を思う。何度もを抱きとめて あやして 幸せにして ああ、

「おかしくなりそう」
「今以上におかしくなったらオレの手には負えないからな」
「ははは、うそばっかり」
「どうだか?」

そういって男は目を細めて笑う。秋の太陽の笑い方だ。は胸が詰まりそうになって一度溜息を漏らす。こんな天気のいい朝から溜息か、と呆れられたけれど気にはしなかった。それよりも訊いてみたいことがある。

「カズマ」
「ん?」
「わたしが エデンから居なくなったら どうする?」
「…そうだな、」

たかが暇潰しの質問にさえ律儀に考えを巡らすカズマが座ると、ぎし、と音を立ててベッドが微かに揺れた。その揺れさえ彼が生んだものなら愛おしい。ふとベッドの上に寝転がったまま、または窓から空を見上げる。そうしてぼんやりと、最愛のカズマの親友であるタケルの事を考えた。あいつは無鉄砲でバカだけれども私から見たら大層羨ましい性格をしている。何でもかんでも、とりあえずやりたいことは是が非でも遣って退けてしまう男だ。不可能に体当たりしていくのだから敵に回したときこれ以上に怖い性格もなかろう。友達でよかったと心底思う。尤も、こちらから何も仕掛けなければ自ら進んで敵を作るタイプの男でもないので友達になることは難しくない。そうしてカズマとタケルを見かければいつもその場に居るビスマルクはわたしが最も気に入っている男だ。気弱で捻くれているけれども賢い。何かあったときに一目散に逃げようとするのはまず彼だが、それはとても正直な行動だ。臆病で格好は悪く見えるかもしれないが見栄を張って威張るよりも数万倍良い。もしも私が旦那にするならば、タケルのような向こう見ずよりも保守的なビスマルクを選ぶだろうと思う。自分の旦那がある日突然無鉄砲で飛び出して帰らぬ人にでもなられたら大いに困るからだ。まあそんなことを言っても結局はどちらも選ばずに目の前の男を選択するのだけれども。兎にも角にもそういうわけで、わたしはタケルもビスマルクもすきなのだ。

「カズマ」
「…ん?」
「わたし みんなと一緒に地球に」
「駄目だ」
「…どうして?」
「……、いや、おまえが本当に行きたいなら オレは」
「とめない というの?」

じっとを見つめた後、カズマは静かにああ、と言った。そうしてやんわりと笑う。嘘か本当かは定かではない。いや。そもそもこんなにも多くの脳が存在している世界では嘘も本当もあったものではない。ややこしい場所だ。面倒くさがりなわたしには少々息苦しい世界だが しかしそうだといって死ぬ訳にもいかない。死ぬ勇気もないからだ。いっそのこと、誰かが殺してくれればいい。嬉しいことも楽しいことも幸せもぜんぶなくなるけれども これ以上面倒くさいことも苦しいことも悲しいことも憎らしいことも同じように増えることはなかろう。無が一番楽なのだ、とがもう一度溜息をつくと、カズマがベッドから腰を上げてが空を眺める手段にしていた窓を開けた。

「…わからない」
「わたしもわからない」
「……?」
「カズマがいれば何でも大丈夫だと思った」

目の前の男さえ居れば何だって何でもなくなると、そう思っていたのだとは双眸を伏せた。見える世界はあまりに不確かで、に容赦なく不安や恐怖を注ぎ込む。何も知らないで生きていられるのは本当に幸せだ。そうして自分がそうでないが為にはその状況に浸る存在が憎らしい。あるがままで居ることを許されるならばこの世には苦などなくなるだろうに そんなことはきっと千年生きようが一億年生きようがやってこないだろう。他人は他人のままで、自分は自分のままだ。何千年何億年経とうとそれは生まれてしまったら二度と変わらない現実。

「何の苦労だって厭わないと思ったわ」
「…なんで そう思ったんだ」
「あなたが一番大事なものだからよ」

迷う素振りも見せずにはっきりと断言するは少しばかり眉根を寄せた。カズマが開けた窓からは爽やかな風が入ってくる。空が人工だというなら、この風も人工なんだろうか。人を自然から生まれた自然の一部とするなら、人工的なものが自然的ではないということにはならないけれども。面倒だなとは思ってそうして思考を遮断した。すべて、なるようになっていくものは自然的だ。

「一番大事なものだから それさえ守り通せば何も不便はないと思ったの」

でも違った。こんなにも多くの脳が存在している世界と一つの脳しか存在しない世界では、白も黒も右も左も全て違う。本当にややこしい場所だ。

「分からなくなったわ」
「なにが」
「わたし自身が」
「…なんで?」
「守るものを一つしか持たなかったからよ。これなら、何もないほうが余程楽だった」

それを見失えばすべて見失うことに気が付かなかったはもう行く場所がない。目印を失くしたからだ。だからさっき暇潰しの質問と見せ掛けて質問をした。いなくなった場合のことを。

「何か言われたのか」
「身内に、すこしね」
「まあ不安なんだろう、ボランティアばかりさせられている男と自分の娘が交際しているんだ。仕方ないさ、」
「そうじゃない、わたしが許せないのは」

そこで言葉を区切って、は数度瞬きをした。許せないのは、小言を言う身内でもこの脳だらけのややこしい世界でも人工なのか天然なのかいまいち分からない空でもボランティアばかりしている自分の交際相手でもない。目頭が熱くなって鼻の奥がつんとした。しかし何とか思考を逸らして水分の行く先をも逸らす。カズマはそんな恋人を少しばかり心配そうな表情で見つめた。彼が傍にあった椅子に座って言葉を待つ間も、絶え間なく頬に触れる風が一瞬も停止しない時をその脳に刷り込んでいく。未来が分かればもっとゆっくりと落ち着いて生活できそうなものだ。を見やれば、ベッドの上に寝転んだまま、は覚悟を決めたように唇を開いた。その双眸は瞬きこそ多いものの確かにカズマを見つめている。

「わたしよ」
「おまえ自身?」
「あなたが一番大事だと思った。でも否定されて感情的に怒って、不安になって、自分は正しいのか分からなくなった」
「…じゃあ 今は」
「いいえ、今もわたしはカズマが一番好きよ。でも不安なのも本当。それに悲しいわ」
「悲しい?」
「こんなに好きなあなたを、自信を持って正しいと肯定してあげられない自分が悲しい」

信じようと思えば信じられないことはないけれども、そこにあるリスクを計算してしまうにはそれは到底出来ない。しかしだからといって諦めようと思えば諦められるものを、そこにある可能性にしつこく執着しようとするは諦めることが出来ない。なんと中途半端な決意と妥協だろう。今までこんな中途半端で生きてきて 今更すぐにこれを直す事も到底出来ない。自分を信じてやれない自分が憎らしく、何も知らずに生きてきた過去の自分が許せない。そうしてその嫌悪が 全ての不安に繋がっている。

「信じようとはしてるんだろう?」
「でも出来ない」
「それでいいさ」
「カズマ、それじゃあ意味がないのよ」
「現実以外に意味があるものなんてないんだ。言葉も意思も感情も希望も、現実に生まれなければ意味なんてないと思わないか」

思っているだけでは何も生まれないし伝わらないし変化もしない。しかし残念なことに自分らが今生きている世界は、生まれなければ伝わらなければ変化を起こさなければ、意味さえも生まれない場所なのだ。

「大丈夫、」
「また無責任なことばっかり言って。タケルに似てきたんじゃないの?」
「そうかな…でも、オレは無責任なんかじゃない」
「カズマ?」
が不安になりすぎて死んでしまう前にこれを正しいと肯定してやるよ」

だからあんまり悩まないでくれ。オレまで不安になってくる。そういって笑うカズマは、には思うままに生きる完璧な存在に見えた。これだからややこしい世界は面倒だ。他人のこととなるとどれだけくっつこうが一ミリも分からない。

「信じることは難しいかもしれない、でも何も信じないでいることのほうがよっぽど難しいもんだ」
「…そうね」
「……納得したの?」
「わからない」

がそういって大きく笑うと カズマは呆れたように しかし穏やかに微笑んだ。引っ切り無しに揺れるカーテンがベッドの上に落とす影が徐々に短くなってきている。さて、そろそろ起きようか、とカズマが椅子から腰を上げて告げた。本当はその一言を言うために部屋にやってきたのだろう。予定もあるだろうに、その様子さえ悟らせずに話に応じる目の前の男を は確かに 愛してみたいと思った。到底諦めることは無理そうだ。

「不健康も程々にした方がいいんじゃないか、
「尖った言い方ね」
「だってそうでも言わなきゃおまえは起きないだろ」
「まだ手段はあるわよ」
「知ってる」

ゆっくりと、カズマが軽く身を起こしたの唇を塞ぐ。茹だるような真夏の熱に晒されて尚、は唇を伝って脳に知らされる熱さを嫌だとは微塵も思わなかった。離れて小さくカズマが笑む。




「タケルがレースに出るんだ。観に行こう」




視界に飛び込んだ雲ひとつ見当たらない空は、確かに爽やかな夏を彷彿とさせる快晴だった。









042207
(雨が降らなければいけないときだって あるんだから)