奈落の冷えた空気を纏って、苔生した土を踏む。太陽の光が差さない地下深くでは、今が朝か昼か夜かを知ることは難しい。不便だという者も、心地が悪いという者もいるが、にはその変わらない静寂がとても心地良かった。賑やかさが特段苦手なわけではなかったが、昔から、自分の領域があり、そこから漂う自由の気配を好ましく思うことの方が多い。寝起きの髪を雑に解しながら、欠伸をして太鼓橋の縁へ肘をかける。長い時を経た草木の匂いに混じって、庵の襖や畳、そして微かな花の香りがする。

「おや、愛し子よ」

起きたのかい、と柔らかく深い声が訊ねる。水のようにすんなりと溶けるような音だ。この島へ来てから、最も長く身近にあるその声に、はゆるゆると笑って振り返る。起きた、と言って庵に戻りながら、もう一度笑う。月黄泉は音もなくその双眸を柔らかに細めて、長い裾越しにの頭をひとつ撫でた。

「ちょうど散歩に出ようか、と、思っていたのだが」
「あら」
「お前も行くかい?」

落ちた木の葉が僅かに死に水の池面を揺らす。音という音もない、微かな揺れが言葉の合間を滑る。遠く、天岩戸、と渾名するには地中深い扉が開く音がする。石畳で作られた階段を慣れたように降りてくる靴音に、は小さく笑った。腹の底に熱を持つ柔らかな愛しさが生まれる。月黄泉は表情を変えずに、ああ、とだけ言った。奈落の池を弾く僅かな煌めきが、階段を抜けて現れた赤い瞳を美しく彩る。

「月黄泉殿」
「いらっしゃい、愛し子の花婿よ」
「お邪魔致します」
「おはよう朱砂」
「良かった、起きていましたか」
「今日は君が連れにくる日だったか」

朱砂は手袋を外しながら月黄泉に短く、しかし穏やかな所作で頷いた。それからするりと手を伸ばして、庵に上がろうとしていたの手を掬って助けてやる。

「仕事は終わったんですか?」
「もちろん終わったわよ、荷物持ってくるから待ってて」
「ああ」

庵の奥へ姿を消したを見届けた後、朱砂は一つ苦笑して月黄泉を見遣った。月黄泉は表情を変えずに緩く笑んだまま、君を案じていたようだよ、とだけ言う。奈落の外から微かに伝わる揺れや大地の動きが、静寂に鳴って溶けていく。黄泉より更に深い場所だが、淡い鉱石の明かりや生命の紡ぐ微かな音の合間を揺蕩う淡い静けさが、まるで長い長い時の緩やかな流れに触れているようで、それは朱砂にとっても大分心地の良いものだった。が海の向こうから天女島へ辿り着き、その後この島へ渡ってから長らくここへ身を寄せていたのは、何も月黄泉の存在だけが理由ではないのだろう。

「仕事の度、ここに篭りたがるのは彼女だというのに…」
「不満かい?」
「いえ、そういうわけでは…むしろ安全と思う隠れ家があって、少し羨ましいですよ」

そう口にして再び庵の奥を見遣ると、朱砂はほんの僅かに目元を緩めた。月黄泉は袖に隠された手を口元へ寄せながら、ふむ、と言う。ゆるく瞬く淡い光がゆらりゆらりと揺れる。座るかい、と勧められて、朱砂は外した手袋をもう一度着けながら、月黄泉の厚意を受け取った。縁側に腰掛けて、奥から聞こえる支度の音に耳を傾けていると、不意にたまに聴こえる死に水の池の揺れる音がする。奈落はいつも、同じ静寂が揺蕩っている。がその身を隠して過ごした場所。そして、いつか、もう一人の白のためを思って、自らとの間柄を擲つために引きこもった場所。と朱砂が出会ったのはもうだいぶ前のことだったが、晴れて恋仲となり、夫婦となったのは今からそれほど遠くない過去だった。白のマレビトという異端に異端を重ねたような娘と、色や情報の管理をする組織の長。出会うことそれ自体は恐らく必然だった。

「地上での職務は大変そうだね」
「楽では、ないですね」
「お前は人の子、命も肉体も限りあるもの 養生することだ」
「有難うございます」
「月黄泉、本いくつか置いておいてもいいかな?どうせまた使うし、都度持ち運ぶのが億劫で」
「ああ、いいよ」
「うれしい、ありがとう」

奥からやってきたが、お待たせ、と朱砂に笑う。朱砂を見るその双眸は愛おしさに満ちていたが、しかしその底へ僅かの心配が滲んでいた。朱砂はその双眸を真正面から受け止めて、ひとつ瞬きをする。久しぶりというには短く、いつもというには長い時間、出会わなかったそれを、朱砂は大層愛おしい、と思った。縁側から腰を上げた朱砂が慣れた手つきでの荷物を持つ。靴を履きながら、が月黄泉に滞在の礼を言えば、月黄泉はいつも通りに笑んでいつでも歓迎だよと言う。

「次はわたしの夫に隠れ家が必要なくなる頃に来るわね」
「聞いていたのか」
「奈落は音が少ないから」
「気を付けてお帰り」

実家を離れるような心地に擽ったさと有り難さを感じながら、は月黄泉に一度手を振って朱砂の隣を歩く。緩く踏み締めた苔生す地面が、心地よく鳴る。朱砂はそっとの背を支えながら、石畳の階段を先に登るよう促した。

「朱砂、徹夜明け?」
「仮眠は取ったんだが、ほとんどそれに近い」

薄暗く長い地上への階段を一段ずつ登る。会話が薄闇に溢れて滲む。

「そう ではこのまま家に帰りましょ」
「まだ朝食を摂ってないんじゃないのか?」
「家で作るからいいよ」

何が食べたい?そう言っては朱砂を振り返る。黄泉の死菫城へ繋がる扉を背に、と朱砂は再びその視線を交える。ごう、と地中深くを流れる地脈の音がする。ひとつ、ふたつと呼吸を奪い合う間、厚い扉一つを隔てた黄泉の音は、ひとつも聞こえなかった。は朱砂の胸元に当てていた手を彼の首筋へと伸ばす。少しの間、朱砂に抱き留められながら、はやく帰って彼のすべてを得たいとは思った。そろそろ行こう、と朱砂が名残惜しそうに手を離す。厚い扉を苦もなく開けて、どうぞ、と言う。

「うわ眩しい」
「あ」
「朱砂?」
「しまった…染まっていますね」
「一応結って誤魔化そうか…」






裏庭で春を縫う

043020