なんの理由もなく、不意に夢が途切れて朦朧とした意識で瞬きをする。ビロードのように滑らかな暗闇が睫毛を撫でて、文字通りの空白の瞬間がわたしの体を満たしている。深く息をつくと背後で、どうしたの、と夜のしじまを縫って凛月がベッドの中で薄く笑う。ぎゅうと腹に回された片腕が強くわたしの体を引き寄せるので、わたしは寝返りを打ってもう一度瞬きをした。眠気で瞼が重くて、、と呼ぶ凛月の声に曖昧な音で返事をする。頬を撫でる凛月の指先が心地よい。窓の外で庭先の梢が鳴って、風が吹き抜けて行く。親の不在を見計らってこうして肌を重ねるようになってもうどれくらい経つだろうか、とふとわたしは凛月の胸に顔を埋めながら考えた。そうして、少し前にした大喧嘩のことを思い出す。夢ノ咲学院への編入を黙っていたら、凛月の逆鱗に触れてあわや破局という結果になったのだ。おかげで編入から1週間は学校に慣れるどころか何をしてたのかすら思い出せない。凛月を嫌いになどなっていないのに、感情を表現するための武器としてその言葉を選んだ自分の子供じみた態度も、行動をコントロールしようとする凛月の幼さにも、不慣れな場所での生活にも、苛立っていた。黙って心配していた母の前でうっかり泣いて、どうするか自分で決めなさいと言われた夜、自分がどうしたいかは分かっていて、それに凛月を付き合わせたいだけだということに、気付くまでは。しかし、ああ、手放すべきかもしれない、と思って寝れなかったその翌朝、凛月が玄関まで迎えに来た。具合の悪そうな顔をして、迎えに来ただけ、と一言だけ口にした彼は、横に並ぶでもなく前を行き、ただ無言で朝陽の中を歩いていた。凛月の背中を見て登校した、その朝を、きっとわたしは一生忘れられない。

「凛月」
「なあに...?寝ぼけてる?」
「...」
「食べちゃうぞー」
「ねえなんであの朝...迎えに来たの」

日光はてんで駄目じゃない、と付け足して、ようやく自分の意思で瞬きができる程度には意識がはっきりとしたわたしはまっすぐに頭上のルビーのような双眸を見つめる。あの時随分具合が悪そうだった凛月は、僅かにカーテンから差し込む月明かりの中で酷く生き生きとしていた。ただ表情は芳しくない。あるのは掘り返して欲しくなかったという苛立ちに似た不満だ。

「べつに...何でだっていいじゃん」
「だって迎えなんて一度も」
「好きだったから」

言葉を遮って、投げるように凛月が言う。ビロードのような暗闇を纏ってなお美しい声音が溢れて部屋を満たす。

「俺は手放す気なんてなかった」

はっとしたわたしに向かって、でも勘違いしないでよ、と続く声は、棘にまみれて肌を刺した。わたしは黙って、月明かりも差し込まない凛月の腕の中で柔らかな沈黙を抱きしめる。凛月のために手放すべきだと、思っていた自分のことも、きっと彼は分かっていたに違いない。わたしが凛月のことを分かっている以上に、きっと凛月はわたしを知っている。当時彼から注がれる視線や好奇心を、得られる人間はそう多くはなかったはずだ。

「いくらが俺のものでも、他の人間をプロデュースするとか、男だらけの場所に飛び込んでくるとか、そういうのは嫌なの」

はっきりと、不機嫌の奥に愛情を隠した音が月明かりに煌めく。嫌だと言いながら自分の体調を犠牲にしてまで守って、好きだと言いながら不平をぶつけてくる。同い年なのに子供みたいで、でも本当に大事な時には腕を引いてくれる。そんな不器用さが、時折愛おしくてどうしようもない。凛月の胸に額を預けて目を閉じる。抱き寄せる凛月の腕が僅かに強まる。

「...分かってるの?」
「...うん」
「ふぅん...じゃあ、ちゃんと聞かせてよ」

何を、と顔を上げたわたしの視線を上手に捉えて、凛月がその双眸を僅かに細める。アイドルとしてステージに上がる時に見せるものでも、生徒としてクラスで見かけるものでもない、その赤い瞳は世界の果ての欠片を閉じ込めたようにうつくしく、忘れられない瞬間をわたしの心に刻んでいく。それは、わたしだけに与えられる彼に溺れるわたしは、彼だけのものだと、改めて思い知らされるようだった。そうして薄暗闇のなか、口にするたった三文字の言葉が、まるで真夜中の天球から降り注ぐ星のような煌めきで響く。それを聞く彼がひどく柔らかく瞳を細めて嬉しそうに笑うことが、とてもしあわせなことだとわたしは思った。




ベガの初恋

070218