真っ暗な深海から緩やかに浮上して陽射しを浴びる意識を、朝一番で鳴き始める鳥の声が、柔らかく撫でる。声にならない音を鼻先で鳴らして寝返りを打つと、階下で賑やかな声がした。去年以来、フィギュアスケートのシーズンがオフになると、みんなが当たり前のようにここに集うようになっていた。深呼吸をすると、風に吹かれるように意識が眠気の波間に攫われる。ゆらりゆらり、ベッドの海を揺蕩う。その合間に、ぎし、と板張りの古い階段を上がってくる足音がした。静かに襖が開いて、少しの間、足音が止む。意識が波間で薄まって、いよいよ溶けてなくなりそうなほど現から離れると、不意に頭を撫でる指先がそれを掬い上げた。微かにコロンが香って、陽射しを受けて煌めく川辺の庭のように、草木の匂いが鼻先を掠めて柔らかな上品さが後を追う。それは、いつの間にか無条件に心を緩めるほどに慣れた匂い。

、起きろ」

ベッドのスプリングが微かに軋んで、静寂が踊る。階下で再び、賑やかな喧騒が生まれては消えていった。ゆらりゆるりと波に飲まれた意識では、僅かに瞼を持ち上げることさえ難しく、わたしは声にならない返事をして、頬に触れる手のひらを掬う。殆どない意識で唇を寄せて、ユーラチカ、と呼べば、指先は僅かに強張ってとても美しい不機嫌を纏った。

「おいババア、離せ」
「ババア言うな...触れてきたのはユーラチカでしょ」
「うるっせえ!お前、俺がいつもいつもどんな気持ちで」

そこまで言って、トパーズを砕いたように朝陽を反射する長髪を揺らした少年は沈黙する。会話によって深い海からサルベージされるように意識がはっきりとしてくると、わたしは瞼を持ち上げてようやくそのペリドットの双眸を探し当てた。彼はその頬を桃色真珠のように美しく染めて、視線を逸らす。わたしはもう一度、ユーラチカ、と呼んで、ひとつ瞬きをした。ぎゅう、と繋いだ指先が強く握られる。決して冷たくはない、美しい庭先で生まれたような静寂が、時計の秒針に押されて流れていく。

「知ってる」
「あ?」
「わたしもユーラチカと同じ気持ちだから」

ボーン、と階下の壁時計が鳴る。それは出発を知らせる汽笛のように、部屋のしじまを食べて朝を呼ぶ。その余韻が完全に消えるまで、ユーリは部屋の向こうから差し込む無垢な陽光にペリドットを反射させたまま微動だにしなかった。しかし、ついにその繊細な睫毛を揺らしてひとつ瞬きをすると、彼は徐にベッドに腰掛けたその身を屈めてわたしの唇を塞ぐ。絹糸のように細いユーリの髪が、宝石の煌めきを纏って揺れる。川辺の庭に鮮やかに愛が色づく。そっと離れた彼の唇が、恋しいと言わんばかりにわたしの名前を呼んだ。そうしてわたしをまっすぐに見詰めるペリドットの瞳は、とても力強く揺るぎない輝きに満ちている。

「同じな訳ねーだろ俺の方がしんどいわヴァーーーカ」

乱暴に繋いだ手を引かれて、わたしはついに眠りの海から起き上がった。情けない呻き声をあげると、ユーリはその双眸を緩く細めて笑う。どんどんと大人になって男らしさを身につけていく、目の前の恋人に、心臓がリボンで締め付けられるように苦しい。啄ばむようなキスが降って、彼が大人になるまでは、と二人で約束した日のことを、思い出す。その時は散々悪態をついて不平を並べていたのに、こうしてわたしが揺らぎそうになるとき、いつだって彼はぶれないでいてくれる。

「とっとと起きろ、飯だぞ」

そう言ってベッドから立ち上がり部屋を後にするユーリを返事とともに見送りながら、わたしは着替えのためにベッドの上でオーバーサイズのシャツを脱ぐ。頭を抜いて両手にそれを通している以外はブラキャミソールになったところで、ぴたりと足を止めて動かないユーリの背中が視界に入った。ユーラチカ、と声をかけたその細くしなやかな背中が微かに震えている。開いた襖の合間から差し込む朝陽が眩しい。

「ユーリ、大人になったねェ~」
「ちょっとまって僕は姉ちゃん起こしに行ったユリオが帰ってこないって上がってったヴィクトルも戻ってこないから駆り出されただけで」
「てめぇらふざけんなぁあ!!!」

こうしてのどかなはずの田舎での休暇は、盛大なアイスタイガーの咆哮で幕を開けたのだった。








わたしと世界と肉食獣


072618