ああ、これはまずいな、と思った。外交のために遠路遥々やってきた国の王宮内、充てがわれた品の良い寝室で、は小さく身震いする。今何と、と心を落ち着けるように息を吐きながら尋ねると、数日前に初めて見知った顔の青年が酷く優しい声で、帰したくありません、と言った。空の果てのような静寂が部屋に満ち満ちて、は深夜に突然訪問してきたその王家の青年と見つめ合う。出て行ってくださいとも、誰か助けてとも言わずに、はただ、聞き慣れた海の音もしない部屋で、初めて流れ星を見つめる子供のように真っ直ぐな彼の双眸を綺麗だ、と思った。確か年齢はシンドリア国王の一つか二つ下だったはずだ。嫌だったら言ってください、と言って森々とした柔らかな暗闇を壊すと、青年はの頬に手を伸ばしてそっと触れる。ルフが優しく揺蕩っているような感覚にさせる彼を見詰めながら、は酷く悲しい心地がした。なんてやさしくて柔らかい。健在の王族の一員である以上、目の前の彼が何一つ不自由なく暮らしてきたことは間違いない。しかしそれでも、苦難や悲しみがなかったわけではないだろう。彼の人生を簡単なものだというつもりも、誰かと比較するつもりもない。ただ、失うものは少ない人生だっただろう、と思った。とても綺麗な悲しみで心が満ちていくのを感じながら、は自身をベッドへ組み敷いた青年を緩く制止した。ごめんなさい、と口にした謝罪を、目の前の青年は真摯に受け止めていたようだったが、にはそれが彼に対してのものであったか定かではなかった。青年は遠く光る星のような双眸でしばしを眺めて、貴女は不思議な女性ですね、と小さく笑う。そうして、の額にひとつ唇を落として部屋を去っていった。たった数日で彼を嫌に思うようなことはなかったが、その真っ直ぐな双眸や姿を見るとかつて守れなかったものを思い出して辛い。何の努力も必要とせず、双眸から大粒の涙が溢れる。大きな窓から月明かりが酷く煌々と降り注ぐ。どうして。

さん、起きてます?開けますよ」
「あ」
「なんで泣いてんすか もしかして」
「マスルール、わたし」

シンドバッドに会いたい。そう言ってとても純粋な感情を露わにするを目の前に、マスルールは自身の疑問を問い質すどころではなくなってしばしおろおろと動揺しながら彼女を宥めた。シンさんに会いたいすか。明日の出立を早めます。だから泣かないでください。あの人移動魔法でも何でも使ってこっちに来かねないから。はマスルールの手を握って頷いたり謝ったり笑ったりした。しばらくして月明かりを受けダイヤモンドのように綺麗に輝く涙が見られなくなった頃、ベッドの傍に膝をついてを宥めていたマスルールはもはや疑問のことすら忘れてしまっていた。



その翌朝も、帰国の道中も、は普段通りの様子であった。マスルールは心底ほっとしたが、帰国してみると、普段通りであることの違和感に気がついた。シンドバッドに会いたい。そう言ってまるで子供のように素直に涙を溢したのに、帰国の挨拶も報告も平常通り。大人だから、ということなんだろうか。マスルールはが国王らへの報告を終えて自室へ下がるのを横目で見ながら自身もそれに倣おうと一礼した。しかし、名前を呼ばれて引き止められる。背後で扉が閉まる音を聞きながら、マスルールは国王シンドバッドと執政官ジャーファルに改めて向き合った。

「お前からも話を聞いておこうと思ってな」
「はい」
「あの国はどうだった」
「国自体はそれなりに豊かで悪くないようでした...ただ」
「ただ?」

マスルールはそれを言うべきか、少しの間口を噤んで沈黙を食む。あの夜、の部屋から王族の青年が出てきたのは、およそ貴賓を訪ねるような時間ではなかった。もちろん、寝室に入れたのは自分の落ち度だ。しかし、もしも彼らが懇ろになっていたとしても、それはそれで自由なはずだとも思った。彼は彼女に触れたんだろうか。

「マスルール」
「...最終日の夜に、さんの寝室へ入ったものがいました」
「なんですって」
「男か」
「はい。何があったのか俺は聞いてません」
「貴方がいながら何故そのような」
「すんません。匂いがして向かったときにはもう。何かあれば強硬手段に出てました」

仰天して半ばヒステリックになるジャーファルの横で、王は一言も言葉を発しない。マスルールは知り得た事実をもう一つだけテーブルに並べる。

「乱暴をされた様子はありませんでした。でも、俺が部屋に入ったらシンさんに会いたいと大泣きして。それで 帰国の船を早めました」
「もし」

ついに一言も口を開かなかった王の酷く深い声がする。シンドバッドの双眸は、ひたと部下のマスルールを見つめている。覇者の双眸。人を従える声だとマスルールはそれに少し心酔した。

「その者が俺の大事な女性を抱いていたら俺が直々に手を下しに行く。が、恐らくそれはないだろう」
「なぜ言い切れるのです」
「強引に襲ったのならすぐにマスルールが呼ばれていたはずだ」
「...もし、合意だったら?」
「ありえない」
「シン王、どちらへ」
「本人に会ってくる 俺が良いと言うまで部屋には誰も通すな」

そう言って、シンドバッドはかつかつと執務室を後にした。マスルールも今度こそそれに倣って部屋を出ようとしたが、しかし鬼の形相をしたジャーファルに首根っこを掴まれて今度も部屋を出ることは叶わなかった。


遠く海鳴りが聴こえる部屋の窓辺に腰掛けて、はひとつ深い息をついた。湯浴みをし、報告を済ませ、薄手のガウンに着替えてようやく帰ってきた心地を味わう。会いたくて仕方がなかったシンドバッドは、が国を発った時と変わらぬ笑顔でいの一番に出迎えてくれた。おかえり。何もなかったか。楽しかったか。人目も憚らずを抱き上げて安堵の息をつく彼が愛しくて堪らなかった。しかしだからこそそれに応えることが不安だった。もしかしたら彼が守るべきものは、手にするものは、ひとつでも少ない方が良いのではないかという思いが、あの夜からずっとの心を覆っていた。傍にいたい想いと、守りたい気持ちと、儘ならない現実。もう誰にも傷付けて欲しくない。強い人は孤独で弱さを隠しているだけ、完璧な人は無理を押して演じているだけ。シンドバッドは。

「これはまた随分と浮かない顔だな」
「シンドバッド」

が思わぬ来訪に驚いている間に、シンドバッドは慣れた手つきで窓辺のを抱き上げてそのままソファへと腰を下ろす。嗅ぎ慣れた香が鼻先を掠めて、腰に回された腕の温度がじわりと薄い布を通して肌に伝う。少し離れていただけでここまで恋しくなるのは、彼に対してそれだけ甘えていたということなんだろう。はシンドバッドが米神に落とした唇を心地よく思いながら、ふと、あの青年を思い出す。銀河の果てに煌めく光のように、澄んで真っ直ぐな双眸。かつては、同じような金色の双眸に恋をした。それは星の降る寒い夜だった。

「王の寵愛を受けながら別の男を想うようになるなんて、お前をあの国へ行かせるべきではなかったかな」
「ちが」
「…何か俺に話すことはないか、よ」

海の底で聞く波の音のような柔らかい声が、の耳を刺す。を自身の上に抱えてゆったりとソファへ腰掛けている王は、その金色の双眸で真っ直ぐにを見つめて何も言わない。はシンドバッドにそっと手を伸ばしてその頬に触れる。もしもこの人と出会っていなかったら、どんな人生を送っていただろう、と思うことすら苦しいくらい、身も心も彼に心酔してしまっている。でも、それは彼の幸せには繋がらないかもしれない。

「シン」
「なんだ」
「...もう一度あの国へ行ってもいい?」

シンドバッドは何かを推し量るようにの様子を眺めていた。俺以外にも恋をしたのか。唇の合間から押し出すように呟いて、の腰を強く引き寄せる。愛しい男の香が香って、ぞわりと肌が粟立つ。

「知らないルフの匂いがするなと思ったんだ」
「あ」
「この匂いを消してからもう一度話を聞こう。…お前は変に頑固だからな」

でもそんなところも好きだよ。シンドバッドがの耳元に唇を寄せて、慣れた手付きで絹のガウンを滑り落とす。露わになったその白い肌に他の男の痕跡がないことを確かめながら、シンドバッドは王位も二つ名もないただの男として何度もを抱いた。触れるたびに律儀に熱を持つ肌に痕を残して、快楽に震える柔らかな身体を抱き留め、涙と上がる息の合間に呼ばれる名前に幾度も答える。そうして昼も夜もなく、食事と湯浴みの時間以外は互いに溺れ合って3度目の夜を迎える頃、はシンドバッドの下で彼から与えられた欲望の余韻に震えながら、このまま貴方のルフになりたい、と言った。幾度もの行為で掠れた声がシンドバッドの名前を呼ぶ。それだけでもシンドバッドの欲望は鮮やかに燃え上がったが、自らの下で何かを願うように自身を見つめるを見ると、彼はゆっくりとの中に収めたままだった自らを抜いての横に寝転んだ。二人の愛情が零れ落ちて糸が満月の光に煌めく。シンドバッドはを覆い隠すように腕の中に抱き込んで、その額に唇を落とした。

「そんな物騒な殺し文句を教えた覚えはないぞ」
「そんなつもりで言ったんじゃないわ」
「そうか でもお前の目は、あの時と同じだよ」

最初のうちは、我ながら酷い独占欲だ、とシンドバッドは思っていた。長いこと苦楽を共に過ごし、恋に落ちて、自分以外の男になど渡すものかと思ってきた女が、見知らぬ男の深夜の訪問を拒まなかったと聞いた時、ひどく心の臓が冷えた。有り得ないことではない、と思ったが同時に、何としてでも引き止めたい、とも思った。もう一度かの国を訪ねたいという願いを聞くつもりは、毛頭なかった。しかしそれは、部屋を訪ねて見つけた彼女が路頭に迷った子供のようだったからだ。そんな状態でどこへ行かせられるというのか。それに何より、行かせる理由もない。抱く度に自らを呼ぶ声も、無意識に強請る体も、支配を許して向けられるその双眸も、彼女と恋に落ちた頃から何一つ変わっていないことを、シンドバッドはよく知っていた。恋など自分と彼女の間以外にはどこにも存在していない。

「よかった お前はまだ俺が好きだな 誰かと恋に落ちたのかと」
「気になる人がいるのは 確かよ」
「そうか、でもそれは恋じゃないよ」
「どうして分かるの?七海の女誑しというのは伊達ではないということかしら」
「ははは、あまり馬鹿にしてくれるな…俺はお前が恋に落ちた相手を見る目を忘れたことはない」

さっきだって同じ目をしていた。シンドバッドは何かを言いかけたの唇を塞いで、僅かに強く体を寄せる。汗ばんでいた体が冷えてしまわないか心配だった。ぱた、と不意にシーツに雫が溢れる。シンドバッドがそっと唇を離すと、腕の中では涙を湛えた双眸を真っ直ぐ彼へ向けていた。ぱたりぱたりと鮮やかな感情が広がる。シンドバッドは恋に落ちた夜を思い出す。星が降り注ぐ寒い夜。シンドバッドは恋をした。

「シンを守りたいの」
「あの国へ行ったら俺を守れるのか?」
「貴方の傍でなければどこでもいい」
「では諦めろ 俺もお前も そんなところへは行けない」
「いやよ」
「…」
「もう、嫌なの あなたが犠牲になっていくのは」

理想を追うための力に、何かを守るための優しさに、世界を背負おうとする強さに、どれほど心が囚われてきたことか。気付いていないわけがない。彼自身のことにも、そしての考えにも、シンドバッドはとっくに気が付いていて、しかし歩みを止めないだけだ。

「俺はお前を手放す気などないよ」

余所の男に渡す気もない。を隠すように抱き込んで、シンドバッドはたったそれだけを口にした。優しい女性だ。強くて、でもとても柔らかい心の持ち主。今も昔もたくさん傷付けてきたが、だからこそその傷を守って癒すのは自分であるべきだ。シンドバッドはそう思っていた。

「わたしに荊の道を歩めというの」
「ああ」
「ひどい男」
「ああ、だが」

シンドバッドはの頬を撫でて口付けを落としながらその舌先で涙を掬う。顔を上げてシンドバッドを見詰めるの瞳は悲しみに濡れていた。しかし絶望は、その中には少しも滲んでいなかった。二人の間の恋はとても心臓に近くて、遠く星の降る寒い夜に落ちて以来ずっと、途切れることなくその火を灯し続けてもはや消すこともできない大きな炎となっていた。、とシンドバッドが願い事のように名前を呼ぶ。

「例え荊の道だろうと、全身全霊をかけてお前を幸せにすると誓おう」




イノセンスの奴隷



08202017