ゆらりゆらりと昇ったばかりの朧月が揺れている気がした。急がせたタクシーの後部座席に座って、わたしは流れていく景色の向こうに浮かぶ月を見つめる。ゆらゆら、ゆらゆら、幾度も高層ビルの陰に隠れては顔を覗かせる地球の衛星。そういえば、幼い頃は「月がずっとわたしに付いてくる」と不思議に思っていたものだ。わたしは追いかけられることが心底、それこそ死ぬほど嫌いなのだが、それでも月が付いてくるのは嫌ではなかった。むしろ、その感覚は心地よかったとも言える。いつでも、どこにいても、わたしを見つけて照らし出してくれる。それはまるで、わたしが恋をした、ひとりの青年のようであった。そっと、手のひらに包み込んだ携帯を握り締めると、着きましたよ、という運転手の気遣わしげな声がした。その声に引かれるように、はっと意識を現実に引き戻して、わたしは勘定を済ませる。お釣りを手渡してくる運転手のおじさんは、そっとお釣りを受け取ったわたしの手のひらを宥めるようにぽんぽんと叩いて、一言、しっかりしなねと呟いた。急がせた揚句に着いた先が病院なのだ、不自然な反応ではない。皺だらけで随分年季の入った運転手の手は、何だかとても暖かくてほっとする。わたしは手にしたお釣りを握りしめて、「はい」とだけ言った。それ以上は何も言えなかった。それを言うだけでも、声が震えた。タクシーを降りて、病院の入り口をくぐる。途端に、病院独特のあの匂いが鼻先を掠めた。それは消毒液の匂いのようでいて、どこか病人の息が染み付いたみたいな、どこか機械的で、温度も、色もないすえた匂い。ロビーを抜けて、エレベーターに乗り、予め伝えられていた一室へと向かう。初めて来る場所ではなかった。がらりとドアを開ける。見知った面々が一斉にわたしを振り返り、二、三こちらに声を掛けてそっと部屋を出て行く。どうやらそこには、彼の同僚の他にも、彼の義兄とその生徒もいるようであったが、わたしはそれに構わずに彼らと入れ違うようにして部屋の中央、ベッドに横たわる青年を見つめた。


「何事かと思ったわよ、純也」


そっと微笑みを浮かべてわたしがそう憎まれ口を叩くと、ベッドの上に横たわっている青年、風海純也はいつもより少しばかり弱々しく微笑み返す。ごめんね、と掠れた声が音を紡ぐ。まただ。いつも、わたしが知らぬ振りをして、我儘に彼を責め立ててから謝ってもらおうとしているのに、彼はそれを知ってか知らずか、それよりも先に謝罪をする。彼はずるい、とわたしは思った。彼は悪くない。けれど、こう言う時につい謝罪の言葉が口を突いて出る人なのだ。人が良いというか、臆病というか。何にしろ、そんな彼がいらぬ罪悪感を覚える必要はどこにもない。だから、せめてわたしが大人げなく怒れば、それに対して謝る彼は何も悪くないことになると思って、いつも聞き分けのない子を演じる用意をしていたのに。きっと、見透かされているんだろう。純也はそっと笑って、ベッドの脇の手すりにかけたわたしの手を優しく撫でる。それは、皺だらけでも年季が入っている訳でもない、少し骨ばった極普通の男性の手であった。けれども、それでもわたしには随分と特別なものだ。それは、時にはわたしを叱り、またある時にはわたしを甘やかし、そうしていつでも、わたしを愛してくれるひとの優しい手。


「心配しないで、ただの怪我だから」

「怪我にただも何もないでしょ」

「それもそうか....」

「いつ頃治るって?」

「二週間くらいかかるみたい」


思ったよりも長い時間を提示した純也の声に沈黙する。二週間、十四日、それは短いようで長い時間。そっと純也の様子を窺う。もしかしたら、二週間というのは全くの嘘で、実はもっと長い間治療に専念しなくてはならないのを、いつもの要らぬ気遣いで誤魔化しているのではないだろうか。ふとそんな疑問がわたしの胸中にぽつりと生まれたが、窺い知る限り彼の顔色もそんなに悪くはないし、それはないだろう。とはいえ、気にはなるので帰り際にでも関係者に確認を取っておかなければ。わたしは大きく一呼吸をして、ベッドの中の純也を見る。彼は何も言わずただとても真摯な目でわたしを見返した。何かを言う気配を汲み取ってくれたのだろう。しかし、なんだかわたしは申し訳なくなった。零れ落ちそうな感情を拾い上げる時も、行き場のない気持ちに勘付いて手を差し伸べてくれる時も、彼はいつでも、その真摯な双眸にわたしを映してくれていた。わたしを信頼し、疑うことなどしなかった。それなのに、わたしは彼を勘ぐってばかりいる。


?」


何かを言い掛けて黙り込んだわたしを不思議に思ったのだろう、純也が僅かの心配をその声音に滲ませてわたしを呼んだ。


「何でもない。それより、あたしはもう帰るから、純也も休んだ方がいいわ」

「え、あ、うん...そうするよ」

「一人の夜に慣れちゃう前に退院してよね」

「うん、......えっ?」


時間差で酷く頓狂な声を上げた純也は少しばかり頬を染めているようであったが、しかしそれでもすぐに溜息交じりの声で、まったく、と呟いて彼は小さくはにかむ。わたしはそんな愛しい彼の額にそっと唇を寄せて、肩に掛けたバッグを掛け直した。最後にまた来る旨を伝えて病室を後にすると、わたしはそのままエレベーターホールへと向かう。来た時は余りに急いでいて特に気には留めなかったけれども、エレベーターホールのすぐ横には幾人もの看護師たちが出入りする一角が設けられていた。どうやら今の時間はこれといって片付ける仕事もないらしく、何組かに分かれて世間話に花を咲かせているようだ。わたしがエレベーターを待つ合間にはそこから彼らの他愛のない雑談が絶えず耳に届いていたけれども、少々古臭いベルが鳴って目の前の扉が開かれるとわたしは迷うことなくその中へと足を踏み込んだ。







魂に鎮座








082809