やめて、やめて、止めて

はただそう微かに囁く程度のことしかできない己自身に身の毛がよだつほど嫌悪感を抱いた。怒っているのかはたまた悲しいのか苦しいのか痛いのか辛いのか情けないのか、まったく分からない。触れてくる指先がもはや不快なものなのか心地好いものなのかも、判別がつかなかった。わかるのは、それが生きた人間の手だということ、それだけである。しかし、それは同時にを抵抗させる唯一の理由でもあった。大きな声で泣きわめいたら、この状況から逃れられるだろうか。いや、叫んだところで、誰も来るまい。人の気配はしないし、真っ暗で、ここが他人と、或いは他の空間と関連しているとは到底思えない。それに、そんな漫画のような展開を切望するほど無知でもない。大体、人生そうぽんぽんと上手く行くはずがないことは、この世にある芸術というものが証明してくれている。憧れ、不可能、夢、絶望、そういった手の届かぬ何かがあったからこそ、人は自らの手でその手の届かなかった何かを造り出して愛でているのだ。すべてが上手く行ったら人間はなにもしなくなる。は肌に直に感じる指先の迷いの無さに、絶望して失望した。さしずめ今のわたしは絶望にうちひしがれる少女といったところか。確かに、絵にすれば絶望だって美しい。しかし、もう少女なんて呼ばれる年頃ではなくなった。今だって、しらない手が触れてくる乳房は、掴まれる度に柔らかに形を変えてこうして立派に誰かを悦ばせている。不意に、首を捕まれて、息が詰まった。人のというよりは雄の匂いがして、は一気に恐怖を覚える。すべてが霧掛かったように曖昧で不透明な中でふたつめにが確かに感じたものは、しかしそう長くはを支配しなかった。ぐい、と強く、本当に強く体を引かれて、一瞬。視界に確かな世界が戻ってくる。



まるではじめて
自分の名前を聞いた気分だった。

「なぜ泣いている」
「....い、や」
「嫌?違うな、、我が輩が欲しい答えはそれではない」

強い力は先程自分の体を好きにしていた手と同じものだ。女にはない、雌にもない。男と雄だけが持つ、強制的で支配的な絶対の力。あの手も、わたしを支配しようとしていた。

「お前を泣かせたのは何だ」

わたしの手を掴んで離さない、その男が、翠色の綺麗な双眸で見詰めてくるのが歪んだ視界でもみて取れた。掴まれた手に人の温度はない。人の手ではない手。そうだ。わたしはこの手をよく知っていて、そうしてとても良く愛している。しかし、それは本当に確かな事実であっただろうか。まさか、それすらもが夢であったのでは。

「ねえ....抱いて」
「...それは、我が輩にお前を抱き締めろということか、それとも、」

お前を滅茶苦茶にしろということか?うっすらと目を細めて、青のスーツを身に纏った長身痩躯の男が嗤う。どちらでも、と力なく呟いて、ついにはその身のすべてを目の前の男に託した。翠の目をした彼は何も言わずに一度、強くわたしを掻き抱く。痛い、その感覚すら、何だかとても懐かしい。

「.....ネウロ」

やっと呼んだその名前を合図に、そろりそろりと現実がの中へ戻ってくる。夢に支配されたの体がネウロの手によって、彼の手の中に取り戻された。涙はもう出ない。特に優しくしてくれる訳ではないけれど、何よりも確かにわたしを愛してくれる彼の腕の中なら安心だ。



温度がない男の体から、はゆっくりと身を離した。そうして出くわした、を見詰める視線は痛いほど強い。しかし、同じくらい痛いほど確かで、そして何より、はそれをよく知っていた。嫌ではない、被支配の感覚。強い視線と微かに掠れた声が、いっしょくたになって不思議な風体を成した。星が溶けて雨になって降ってきたら、きっとそれはこれによく似ている。不安定で、愛しくて、冷たくて、やさしい。

「夢だろうが何だろうが、お前が泣くなら我が輩はお前を助けよう」






「お前を泣かせる存在は、我が輩の他にあってはならない」







優しい獣に恋をした


090108