行かないでと言って号泣した日のことを、何年経っても忘れられずにいる。ETUの広報の部屋の窓を開け放って、選手たちの練習風景を眺めていたわたしは、手のひらに抱えたマグカップの温かさを両手で包み込んで、目を閉じた。あの日、どれ程かは知らないが遠くへ行ってしまう人間に対して、わたしはとても純粋で、とても幼稚な執着心を見せた。呟いた言葉こそ、行かないで、の一言だけであったが、鬱陶しいほど涙が溢れて止まらなかった。思い出そうとすれば、その日の陽射しや、空気の温度や、周りの景色まで、まるで生まれたときから備わっていた記憶のように、やけに鮮明に脳裏に浮かんでくる。わたしがそのたった一日、たった数分の出来事を、何年もの時間を掛けても消化できていないことは明らかであったが、それでもまだ高校生だったあの日から、時間が止まってしまったわけでも、わたしが歩みを止めたわけでもなかった。わたしはしっかり高校を卒業して、大学に行き、成人式を迎えて、旅行三昧、飲み会三昧ののち、卒業論文に追われながら、就活氷河期という名の戦国時代を潜り抜けて就職した。何度か恋愛もした。時間も、わたし自身も、立ち止まってなどいなかった。ただ、それでもあの日、「またね」と言われたあの瞬間に、わたしの心の中の大事な何かは欠けて無くなってしまったのだ、と思っていた。寒空の下に響く、何度も何度も聞いた掛け声に耳を澄ませながら、わたしはその中の一つを拾い上げる。それは、酷い悪夢のように何年も忘れられない達海猛という男の、とても愛しい声。



柔らかな声がかかる。わたしははっとして、窓辺に肘をついていた姿勢を正して振り返った。

「後藤さん」

振り返ると、そこには僅かの書類を小脇に抱えたETUのジェネラルマネージャー、後藤恒生が優しい笑みを湛えて立っていた。少しくたびれたスーツをそれでも丁寧に着込んだ彼は、目的のデスクに書類を置くと、そのままわたしの隣までやってくる。そこからグラウンドで行われている練習を眺めて、なるほど、と後藤は呟いた。

「達海がよく見える。絶景ポイントだな」

微笑ましいと言わんばかりの温かさのその言葉に、わたしは居心地が悪くなって両手に抱えたマグに視線を落とす。わたしは親が関係者だったせいもあって昔から良くクラブハウスに出入りしていたので、今でもその名残で普通に入り浸っているけれども、昔は子供だったから許されていたようなものだ。成長して、礼儀や、遠慮や、分別を知ったら、ここには立ち入るべきではない。本来ここは自分の家でも、職場でも、わたしが当たり前のように居られる権利を持っている何らの場所でもないのだ。

「すいません、いつもお邪魔してしまって」
「ん?ああ、いいよいいよ、気にしないで」
「...ありがとう」

わざわざ改まって言ったのに、相手の言葉にすぐに甘えてしまう自分自身を嫌に思いながら、わたしは再びグラウンドへと視線を戻した。しかし、その先に目当ての人間は見当たらない。夕陽を携えたグラウンドの上でクールダウンを行う選手たちを見つつ、わたしは隣に立つ後藤の言葉に耳を澄ませる。

「うん。それより...」
「あ、後藤いた」

突然の声に驚いたわたしが振り返ると、それと同時に窓の下で陶器の割れる音がした。落ちていったマグカップの断絶魔に驚いた男二人がこちらを見遣る。一人はわたしの隣に立って何かを言いかけていた後藤で、もう一人は、わたしがここに立って外を見ていた理由そのものであった。達海猛。まさか、こんな風に、再会するなんて思ってもいなかった。9年前、ぼろぼろと涙をこぼして行かないでと縋って以来初めて間近で見た彼は、昔より少し年老いて、昔より少し線が細くなっていたけれども、相変わらず飄々として掴めない雰囲気の男であった。その表情からは、わたしを覚えているのかどうかすら推測できない。

「あれ」
「あ....こんにちは」

そうしてしばらくの沈黙が続くと、隣で、焦った後藤が落ち着きなく達海の要件を聞き出し始めた。しかし、落ち着きがなかったのも最初ばかりで、話をし始めると彼の表情はすぐに仕事の顔へと切り替わる。いよいよもって本当に邪魔になりかねなかったので、わたしは遠慮がちに会釈をして、デスクの上に乗せたままの自分の荷物を取りに向かった。開け放ったままの窓から、まだ冷たい風が容赦なく入り込んでいる。閉めた方がいいだろうかと思いながら荷物を取って振り返ると、達海が後藤に相槌を打ちながらわたしを見ていた。まるでスローモーションのような、1秒。達海はあの日と同じ、何てことはない表情でいとも容易くわたしの記憶を再現して見せた。行かないでと言って号泣したあの日を忘れるなど、どうしてできようか。


「またね、









Sunset
#3650






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