つらい。かなしい。不安。恐怖。そういったものが、あたしの中から消えなくなったのは、いつからだろう。ゆっくりと、雨の中を歩きながらそうやっては記憶を辿る。確か高校生の時は、まだわくわくしていた、はず。クラスメイトと将来の夢を語り合って、どんな風に夢を実現させるか真剣に考えて。あの頃は良かった、なんて年寄り臭いかもしれないけど、でも本当のことだ。夢が実現しないだなんて一瞬だって思ったことはなかった。むしろ、叶わないかもしれないそっちの可能性の方が夢のようだったのだ。将来のことを考えると、どきどきして、まだ決まっていない真っ白な未来が嬉しくて、とにかく何かしなくちゃって思って張り切って。何かに向かって一直線で一生懸命な自分が好きだったのを覚えている。あの頃は、世界はきれいで、なんて素晴らしいんだろうって、そうやっていつもばかみたいに思ってたはずなのに。不意には、ああ、と小さな声を発して、それから雨だというのに先を急ぐどころかぴたりとその歩みを止めた。大降りの雨。テレビではゲリラ豪雨とか言っていたけれど、それって単に予測能力の欠如を誤魔化しているだけなんじゃないのかと思わずにはいられない。何日も続く『ゲリラ』だなんて。まあ、天気予報は飽くまで予報でしかないのだから仕方ない。それに、そんなことを言いながらも、今朝だって晴れると言った予報をしっかりと信じて家を出た。お陰で傘もなく見事にずぶ濡れだが、どうやら他にも同じ天気予報を見た方々がいるようで、傘がなくて雨に打たれるのが特に目立つわけでもないようだった。ありがたい。そう思いながら、止めていた足をまた進める。足が進むのと同時に止まっていた思考もまた進む。あたしが今のようになったのは、受験の時だ。あの冬から、あたしはどこかが大きく変わってしまった。毎日勉強よりも親の説得に全力を注いで、伝わらなくて悔しくて毎晩夜中に泣いて。最後には、可能性を断たれて歩かされるねじ曲がった先に絶望して、泣いて、やっぱりまた絶望した。たぶんきっと、あたしの人生で一度だけ本気で死のうと思ったこの時、夢を信じていた幸せなあたしは死んだのだ。そうして今のあたしが産声をあげて、すぐにあたしの中身を食い散らかして真っ黒にした。将来のことを考えると辛くて、まだ決まっていない真っ白な未来がどうしようもなく不安で。何にも一生懸命になれない自分が何より怖かった。世界が美しいことなんて、知っていたって何の意味もない。ぽたぽたと、雨のふりをした涙が頬を伝って冷たくなった。一体何のために、何を、しなければならないのか、一体何のために、何を、したいのか、それがわからない今のあたしはただの脱け殻だ。本当にゾウリムシやミジンコと大差が無い。それどころか下手をすれば、ゾウリムシやミジンコと比べることすら申し訳ないくらいの生き物かもしれない。そう胸中で呟きながら、雨で張り付いた髪を手で払う。ふと視線を上げると、酷くなる雨の中、は霞む視界の先に目的の建物を見つけた。しかし、その足はすぐにはそちらに向かわない。もう少し雨に打たれて悲しんでいたい、とは思った。雨から逃げたら、また笑わなくてはならない日常が待っているのだ。

このまま、何にも考えなくてもいいように死んでしまえたら

しばらく経ってそう思ったところで、は名残惜しげにビルの中へと入っていった。階段を、わざわざ数えなくても自然と足が向かうようになるまで通っている扉の前に立つ。ずぶ濡れはさすがにここでは目立つだろうなと思ったら、扉を開けるのが躊躇われたけれども、そうやって考えるのもどうしようもない気になってきていつも通りに扉を開けた。灰色の重たげな空を背に、たったひとつの視線がに向いて、一瞬を鮮やかすぎるまでの沈黙が支配する。次の一瞬を支配したのは服か髪から落ちた滴の音。

ゆったりと、一番奥の一番豪華な椅子に座ったこの部屋で一番偉い魔人は何秒待っても何も言わない。ただ、その視線だけがどこへ逸れるでもなく、じっとを見つめていた。ふっと蝋燭を吹き消したような静寂が部屋の温度に溶けては消える。普段ならここで、弥子や吾代やアカネちゃんの不在を尋ねるくらいのことはした。しかし、そうしなかったのは、数メートル先で偉そうに座っている魔界の生き物が、すべてを知っていると気付いたから。立ち止まるのをやめて、そっとその足を部屋の中へと進める。扉がゆっくりと、重たくて無機質な音を立てて閉まる。ネウロに近付くごとに、耳に響く雨の音が大きくなる。こんなに酷い雨だったなんて、さっきまでは思いもしなかった。体に張り付く服が鬱陶しい。あまり良い心地もせずに、ざああ、と窓を打つ雨を聴きながらネウロの傍に立つと、すぐに、そのまま体をぐいと引かれて座るネウロの上に乗せられて、そうして強い力で抱き締められた。あたたかい、とおもった。

「ネウロ」

呼んだことに理由はない。じわり、と真っ青なスーツが濃紺に染まっていく。

「黙っていろ」

抱き締める力は強いけれどもとても優しい。しかし、ぎゅうと抱きしめられながら、ぽた、と彼の肩口に落ちたのは、決して熱いものではなかった。もしもそうであったなら、なんてドラマチックで美しかっただろう。こんな男前となら、きっと素敵なワンシーンになった。だけれど、あたしも彼もそんなものは望まない。美しいこと、それ自体に意味はない。

「死にたいか」

静かに、突き放すような声が容赦なく注がれる。その音には色はなくて、温度もない。でも、あたしを抱く腕の力にも、変化はなかった。だからあたしは彼の肩に顔をうずめて一度だけちいさく微笑む。あの頃は、世界はきれいで、なんて素晴らしいんだろうって、そうやっていつもばかみたいに思ってたはずなのに。たぶんきっと、あたしの人生で一度だけ本気で死のうと思ったあの時、夢を信じていた幸せなあたしは死んだのだ。そうして生まれ変わったあたしは確かに美しさに意味を見出せないけれども、行く先も目的も見当たらないけれども、時々死んでしまいたくなることもあるけれども、しかしそれでも、不幸せではない。世界が美しいことなんて、知っていたって何の意味もない。美しいものが正しいわけじゃない。どんなに醜くたって、みっともなくたって、心を動かすものにこそ意味はある。相変わらず滴は絶え間なく滴り落ちて、床に小さな水溜りを作っていた。ゲリラ雷雨は音を立てて窓を打っていた。声が掠れて震える。情けないなと思った。

「他の選択肢は?」
「賢明な判断だ」

それでも、いつだってそんなあたしの声に返ってくる彼の声は普段よりすこしだけ、優しいのだ。






一瞬の美徳に僕が幻を見ていたとして



090308
夢の喪失なんかに殺されてなるものか