秋も深まる紅葉の綺麗な金曜日の午後。大学が4限で終わりということもあって近場のカフェに入って友人と雑談していたは、友人が打ち明けた話にここ最近で一番大きな衝撃を受けた。本当に、いつも驚きの情報は突然にやってくる。人目を憚らずに叫んだのも久しぶりだ。

「にっ...妊娠んん!?」
「ちょっと声でけーよ...」
「だっ だってあんた、妊娠て!!えっ!?ちょっと待てって、マジで?」
「うん、まあ...今日病院行ったら、2ヶ月だって」
「産むの!」
「とーぜん!」
「ひゃああ、大変じゃん!学校もあんのに...大丈夫なの?」
「確かに大変だけど...」

でも、頑張るしかないもん。そう言って笑った清々しい顔の友人に、は声もなく笑って頷く。

「そうだね!おめでとう」
「ありがとう...っと、ごめん、あたし用事あるから、そろそろこの辺で」
「あ、じゃ、あたしもそろそろ行くから駅まで一緒行こ」

駅までは3分もかからなかった。元々大学自体も駅から近い場所にあるので、学校帰りに寄る場所も専らが駅前。何とも便利のいいことだ。友人とは反対のホームに立って、電車の到来のアナウンスを聞く。来た電車に乗り込んで、それから、愛用の音楽プレーヤーを出してイヤホンを耳につけた。音が耳元でなり出すまでの少しの静寂。イヤホン越しの外は色んな音に満ちていて賑やかだけれど夏のような騒々しさはなくて、はふと、あれだけ朝も夜も鳴いていた蝉はどこに行ったんだろうと思った。まさか本当に全部死んでしまったのか?一匹残らずに?だとするなら、なんていう生き物だ。同じ種族がみんな同じ時間しか生きられないなんて。まるで機械仕掛けだな、と胸中で呟きながら、目的の駅の名前を読み上げるアナウンスを合図にイヤホンを取った。

「弥子ー」

駅の近くに建っているそのビルは、ビルと呼ぶにはだいぶ小柄で、ついでに少々古臭い。そこの、やはりこれも古臭くて何だか薄暗いような階段を何階分か昇ると、その先に大層な名前を掲げたドアが見える。そのドアの先がの目的地だった。しかし、開けたドアの先は無人。場所を間違えたかと思わずドアの外側を見やれば、そこには桂木弥子魔界探偵事務所の文字が書かれたプレートが間違いなく堂々と穿たれていた。仕方がないので事務所に入って待つことにして、そのままドアを閉める。そうしてはいつものように来客用のソファに座りかけたが、しかしふとその先にある黒い立派な椅子を眺めて立ち止まった。いつもなら何とも思わないのに、何故だか今日はその椅子が空席なのが居たたまれなくてそこへ座ることにする。ふう、と溜め息をついて何とはなしに窓ガラスの向こうを見つめた。桂木弥子はの従姉妹で、父親を殺人事件で亡くしてからこの探偵事務所をやっている女子高生だ。大食いで有名。探偵業でもちょくちょく雑誌に載る。だから彼女の母親も、家政婦も、親友も、周りはみんな彼女が本当に名探偵だと思っているが、しかしそれは違う。黒幕は、その後ろの魔人だ。魔界の住人である彼は表向きは弥子の助手だが、その実態は変人奇人の超ドS男で、鳥頭が可愛らしい、の恋人。名前を脳噛ネウロという。こんな変な名前、聞いたら一発で怪しまれるっていうのに、偽名を使わない妙な思いきりの良さにもしかしたら自分は惹かれたのかもしれないな、と溜め息を吐きながらは自身の冗談に自嘲ぎみに笑った。それからバイブの音に気がついて、バッグに入れていた携帯を取り出す。先程とはまた別の友人からだ。

「もしもし?」
『あっ聞いた!?』
「ああ、妊娠の話?」
『そーそー!あたしさっき偶然会って聞いてびっくりしてさあ!』
「2ヶ月だって。うふふ、幸せの絶頂だよね」
「えっ!?」
「...」
「げっ」
『ホントだよー...どんな気分』
「ごめん、ちょっと今立て込んでるからまた後で掛け直すね...」

そう言って電話の向こうの答えを聞かずに電話を切って、呆然と佇む帰社した2人にはどうしたものかと苦い笑みを浮かべた。弥子の驚きと期待の表情はともかく、鳥魔人の表情は色々とマジだ。

「ほう...我が輩、まだお前の裸すら見ていない気がするのだが、地上では好き合えば勝手に子供ができるのか?」
「にっ妊娠ってホント!?」
「いや、ちょっと、待ってよ」

ぐいとの顎を掴まえたネウロが、小さく双眸を細める。その緑の目は無言で誰の子かと訊いていて、は引き攣った笑みを浮かべた。

「あたしじゃないったら」
「えっ?」
「だから、妊娠したのはあたしじゃなくて、友達」
「そ、そうだったんだあ...ビックリした!ねえ、ネウ......」
「弥子、ここは頼んだぞ」
「えっ?!ちょっと」
「うん......」

がしりと小脇に抱えられて叫ぶに憐れみの表情を向けて、弥子が軽く手を振る。どうかが無事でありますように。もはや願うのはそれのみで、しかも弥子に出来るのはそのたったひとつの願いを願うことのみだ。

「ネウロ?」
「さっきの話は本当か?」

ぎし、との後ろで手すりが音を立てて軋む。屋上は丁度夕焼けが綺麗な時間帯だったが、ネウロを前に、手すりを背にしたには、それが照らし出す目の前の綺麗な男の顔しか見えなかった。口許は笑っているものの、目はいつになく真剣だ。怒っているのかとも思ったが、しかし違うと言った手前、そうも考えにくい。

「あたしは妊娠してないですよ」
「.....ふむ」

そっと、手袋をしたネウロの手が腹に宛がわれる。は、それがドラマでよく見る幸せなシーンとあまりに似ているのでどうして良いものか少し迷ったが、ネウロの目が好奇心に満ちていたので結局そのまま好きにさせることにした。魔界からやってきた彼は地上の世界をよく知らない。

「ここで子供は育つのだったな」
「そう」
「十月十日」
「そうよ」
「欲しいか?」
「そうね...いつかね」

言いながら二、三度頷いて、一瞬悲しい顔をしたのはネウロではなく自分だ。は相も変わらず真剣で、これ以上無いほど純粋な双眸を向けてくるネウロを見てそう思った。欲しいか、なんて。

「でも、聞いたところでそうする気はないくせに」
「....なぜそう思う?」
「子供が好きそうには見えないわよ」
「それは少し違うな、好きになる必要がないだけだ」
「どういうこと?」
「不死身の我が輩は子孫を残す必要がない。残せない訳ではないが、必要がない以上それは無駄だ」

ネウロはそっと腹から手を離しての頬に触れる。特別なことなど何も言っていないのに、なんて悲しい顔をするのだ、この人間は。夕陽がどんどん沈んでいくのが遠目に見えて、暗くなる前に戻らねばな、と彼は胸中でのみ呟いた。

、我が輩とお前達人間は違う」

ビルの合間を縫ってどこからかやってきた風が、ざあ、と2人の髪を撫ぜる。自然の匂いが全くしないのには、もうとっくに慣れてしまった。陽はまだネウロの顔を優しい光で照らしている。春の満開の桜や、夏の鮮やかな青空や、秋の優しい色の落葉や、冬の夜の美しい星なんかを見る時と寸分変わらぬ心地がした。むず痒いような、泣きたいような、そんな感情を、はゆっくりと瞬きをして咀嚼する。きっと魔人のネウロにはこの類の感情はわからない。でも、それだって今この瞬間の話なだけで、そのうちあっさりと理解する日が来るかもしれないのだ。そして、ああ、もしもいつか、本当にそんな日が来るのならそれはどんなに幸せなことであろうか。否定されたって、この希望は簡単には捨てられない。

「.......だから、何だって言うの?」
「ム...?」
「命の長さも、力の強さも、全然違うかもしれない。でも、同じ言語で会話ができる。同じ場所で生きられる。そして幸運なことに、あなたは男であたしは女で、...愛し合ってる」
「我が輩は、愛と言う物は理解できない」
「いつかできるようになるわ」
「は.........どうだろうな。.......しかし、もしも本当にその「いつか」が来たなら」
「...なら?」
「なんでもない。とにかく、今のままでもお前は我が輩のものだ、忘れ........お、お?謎の気配だ!、謎の気配がするぞ!」
「えっ、ちょっ!」

待ってよ、と、そう言う間も無く、ついコンマ5秒前まで隣に居た魔人はもうそこにいない。この、雰囲気をぶち壊して去っていく彼の、なんと俊敏なことか。見事すぎてもはや腹を立てる気にもならない。しかし、呆れた、と溜息をつきながらも、は下から聞こえる弥子とネウロのやり取りに小さく笑った。くるりと体の向きを変えて、手すりの上で頬杖をつく。先ほどのネウロの声を思い出した。それなりの可能性を提示したということは、彼にもそれなりの理解しようとする気持ちがあるということだ。そうでないかもしれないけれど、もしもそうなら、その時は、あたしが喜んで彼に愛を教えよう。それであたしと彼が愛し合えるなら、何年かかったって構わない。そう胸中で呟いて、はにこやかに屋上を後にした。ゆらゆらと、汚れた空気に霞む夕陽がビルの山に沈んでいく。侵食するように、東の彼方からは鮮やかな闇が滲み出す。鳴かないカラスは、帰るはずの巣を無くして彷徨ったまま陰に潜んでいた。








未来へ繋がるスイッチひとつ





090508
あなたがいるから不幸はわたしに近付けない