はどくんどくんとまるで警鐘を鳴らすように逸る心拍数にパニックになる心境を悟られまいと、わざといつもよりもゆっくりとバッグから携帯を出した。飽くまで、自然に、だ。そうしてこれも自然に、携帯を開いて電話を掛ける。コールは一度で出てはもらえず、そのまま、二度、三度、同じコール音が続く。その間も心臓の音は早まる一方で、もう心臓が爆発でもして死んでしまうのではないかとは思った。暗闇に、パチパチと鳴りながら光る街灯のあまりの頼りなさに泣きそうになる。こんなもので役所の方々は何をどう安全にするつもりなのか、さっぱり見当がつかない。こんな弱々しい光では、ネズミ一匹さえきっと無事に巣へ帰ることはできないだろう。小さな虫たちがひらひらと光の下で踊っている。暢気なものだ。虫も、電話口の相手も、誰も自分が今置かれている状況になどまるで気が付いていない。カツカツと音をたてて歩く足音に、確かに続く足音が一つある。駅を降りた辺りから、ずっと同じテンポで追いかけてくる音。絶対におかしい、はすぐにそう思った。いつも帰り道はこの道だというのに、今までこんなに一緒のルートを辿る人など一度だっていなかったし、何より、ゆっくりと、それは少しずつ、距離を詰めてきているのだ。薄暗い街灯と、無人の冷えたコンクリートの道。はやく、はやく電話に出て。にはもはやそう願うよりこの状況を打開する方法がなかった。そうしてついに、何度鳴ったか分からないコールが途切れる。

「はい」
「さっ笹塚さん?」
「ああ、か...どうした?」
「あの、今日、会いに来てくれるって、いう、約束」
「え?」
「覚えてるよね?あたし、もうすぐ帰るから、車出して、外で待ってて」

どくん、どくんどくん。だめだ、上手く話せない。そっと後ろの音に耳を澄ませる。寸分違わぬ速さでついてくる足音は、思ったよりも、近かった。

「.......わかった、今そっちに迎えに行く」

絶対にしていない約束、そしてそれを否定する間さえ与えないで話を進めるその口調。何かがおかしい、笹塚はそう確信する。ジャケットを掴んで、玄関に向かいながら乱暴にそのポケットの辺りを探る。車の鍵をその中に確認して、すぐに家を飛び出した。バタン、という音を電話越しに聞いて少しの緊張も治まる。しかし、それでも心臓の音も手のひらに滲む嫌な汗も、後ろから付いてくる足音も変わらない。さっきからもう幾つか街灯の下を通り過ぎたけれど、どの光の下でも虫達は忙しく踊り回るだけで、自分たちの下の世界には何の関心もないようだった。笹塚がゆっくりと、確かな声を届けてくる。今日は何をしたのかとか、お昼に食べたものは何かとか、授業の話とか、が嫌いな先生の今日の様子だとか、そういった些細なことを尋ねてはいつも通りに微かに笑う。勘の鋭さも危機察知能力の高さも危機の渦中での対応の巧さも、この人以上に優れた人間をは他に知らない。選んだ相手は間違ってなかった、はそう確信したが、それと同時にすこし、ネウロのことが気になった。瘴気のない世界でたくさん魔力を使って、くたくたになって、それでもなお、食事のためとはいえ脆くて弱くて愚かな自分たち人間という生き物を守ろうとしている、魔界から来た男の人。傷ついても苦しくても、無茶をしてそれを隠して悟らせない気丈な人。そうして一気に崩れ落ちてしまう、とても不器用な生き方をする人。彼は確かに孤独で、それなのに強くて、そうして不安定だ。

?」
「...あ、」
「おい...大丈夫か?」
「う、うん、ねえ...それで、車の鍵は見つかったの」

少し気になる程度ではない。大いに気にしているではないか。は小さく諦めたように笑って溜息をついた。ひたひたとどこまでもついてくる足音が、ほんの数メートル後ろから聞こえてくる。いつどうなっても、おかしくない。怖いけれども、善良な市民しかいない場所を選んで今のアパートに住んだ訳でもないので、こんな真夜中まで電気をつけて通り魔か何かから避難する場所を用意してくれる家庭もなかなか無い。気を許したら震えそうになる手で掴んだ携帯から聞こえてくる笹塚の声も、もう、どこか遠い世界からのような気がした。塀の上を猫が音もなく歩いてを追い越して行く。毛色が何かはよくは分からないが、少なくとも真白ではない。にゃあ、と一度だけ暗闇に溶けていく合間にその猫が鳴いた。ゆらゆらと揺れる尻尾はまるでに別れの挨拶をしているようで、何故だかはただただその猫が黒猫でなければいいと思った。

「ああ、見つけた...、その角を右に曲がれ」
「え?」
「拾ってやる」

もはや本当に一か八かだった。後ろの相手もどうやら異変に気がついたようで、引き返すべきか、それともこのまま強引に目的を果たすべきか少し躊躇する様に少しだけ足音が変化する。はついに角の手前で駈け出した。車のエンジン音が聞こえることを、これほどまでに嬉しいと思うことなんて一生生きても絶対にないと思っていた。

「笹塚さん!」

思わず叫んで、飛び乗るように車に逃げてバン、と助手席のドアを閉めると、それと同時に、どん、というやや鈍い音が耳に響いた。追い掛けてきていた男が助手席の窓を叩いている。本当に具合が悪くなるほど驚いて、追いかけられている時よりもずっと早く心臓が鳴った。何かを叫んでいるがよく分からない。もしかしたら笹塚には分かったのかもしれないが、少なくともにはもう何かを把握する余裕なんてなくなっていた。ぼたぼたと両目から涙が流れるだけで、声もなく下を向いてぎゅっと手を握りしめる。笹塚が申し訳なさそうにそれを視界の隅で確認して、一気に車を出した。男が勢いに負けて地面に転ぶ。角を曲がって男が見えなくなって大通りに出て賑やかなネオンとそれに照らされて陽気に笑う人々を見ても、は震えを止められずに小さく嗚咽を漏らして泣いていた。決して車を止めることなく、しかしどこへ行くでもなく一定の速度で運転を続ける笹塚がそっと息を吸うのが分かる。きっと自分が落ち着くまではどこへも降りず止まらず、車を運転し続けるつもりなんだろう。

「石垣に連絡しておいた。何人か警察が反対側の角で構えていたから、あの男はすぐ捕まったはずだ」
「あ...ありがとう、ございます」
「...一応、聞いとくけど、あいつに心当たりは?今までにストーカー被害にあってたりとか、しなかった?」
「ううん...全然...」
「そっか...何にしろ、よかったよ、が無事で」
「あの、こんな夜中に...突然連絡して、ごめんなさい」
「...いいよ、そうじゃなきゃ、君を助けられなかった。」
「......優しいね、笹塚さんは」
「それは、誰と比べて?」

不意に、少し笑いを含んだはっきりとした音で、その言葉はの胸の内を通り過ぎた。泣いて痛い目をそろりと運転席に向けると、笹塚はまるで言葉一つ発していないかのように素知らぬ顔で前を向いている。何をどう言ったらいいのか咄嗟には判断がつかなくて、は何度か、ゆっくりと繰り返される笹塚の瞬きをみつめた。

「...どうして、あいつが助けに来ない?」
「......あいつって?」
「......助けには、来れないのか」

ちらりとを見ると笹塚は少し長く息を吐いて、ハンドルを切る。は素直に答えずに誤魔化してしまった自分を後悔した。助けてくれた恩人に、この態度はない。それでも、もうそれ以上何も言わない笹塚に倣っても言いかけた言葉を呑んで沈黙した。笹塚が先ほど導き出した答えは当たっている。ネウロは動けない。刻々と眠りについているか、終始だるそうに椅子に座って何かを思案しているか、或いは口先だけで他人をやり込めて面白がっているかのどれかしか、恐らく今の彼には出来ないだろう。は彼がそれほどまでに魔力を使って疲弊していると知っていたから、連絡はできなかった。きっと彼は怒るだろう。所有物への執着心や独占欲は中々他に類をみないくらいに強いあの人が、不機嫌にならないはずはない。そう思って、は自嘲気味に音もなく口端だけで笑った。「はずはない」だなんて、よくもまあそれほどに大層な自信が出てきたものだ。思い上がるな、そんな声が聞こえてきそうだなと胸中で思う。何せ、自分ほど最低な人間もそうそういない、そう自負するくらいに、自分は褒められた人間ではないのだ。今だって、ネウロが動けず助けに来れないからと言ってこんなに優しい人間を使ってしまった。自分を生かすためだけに、優しさに甘えて、都合が悪いことは誤魔化して、そうして、それにさえ気付かないふりをしてありがとうと言う。どんな凶悪犯よりもずっと性質が悪いのは、自分のような浅ましい人間だ。罪悪感という薄暗くて重たい、せめてもの偽善が胸の中心に突き刺さったその痛みにまた双眸が熱くなって視界が霞むのを、はどうにかして堪えようとしたけれども、しかし一度始まってしまった感情の流れを抑えることはとても難しかった。ぽた、と膝上に雨粒のような水が落ちる。

?」
「ご、ごめんね、笹塚さん、わたし」
「...言わなくてもいいし、泣かなくてもいい。なんとなく、君が考えてることはわかる」
「...ほんと、に、お人好しすぎ...」
「......いや...俺を呼んだのは、正しい選択だったと思う。俺は曲がりなりにも警察官だし、だから今回の行動は俺にとっても、にとっても、至極当然なものだ」

ゆっくりと、車が止まるのに気がついて、は窓の外に視線をやる。見慣れたコンビニに、街路樹、ビル。それらを驚きと共に見つめた後に急いで振り返って笹塚を見ると、彼はじっとビルの上階の窓に視線を向けたあと、に視線を移して少しだけ微笑んだ。

「ここに連れてきたのは、さすがにお節介だったかもしれないが」

そう言って、笹塚はもう一度、上を見上げる。

「でもまあ、君が一番安心できる場所くらいは、知っているつもりだから」
「...笹塚、さ」
「家に帰る時は、連絡くれたら付き添うから心配しなくていい。男が捕まったとはいえ、さすがに、ひとりは怖いだろ」

優しく頭を撫でる笹塚に、は何も言わずに抱きついて、まだ収まらない感情を零さないように笑う。もしも魔界からネウロが来なかったら、自分がネウロに出会っていなかったら、あるいはきっと、目の前の人間と自分が恋をしていたかもしれない。でも、それを言ったところで起きなかった奇跡を願うには遅すぎたし、それに何より、意味がない。目の前の彼はそれを理解して、その上で自分の傍にいてくれているのだ。彼は警察官として、一人の市民を助けた。それが本当に理由のすべてかどうかを知る術はないが、彼がそう言うのなら、それでいいのだと思う。過ぎ去った奇跡は誰にも触れられぬまま、綺麗なままで、二人にだけ永遠の形を見せる。それがお互いを温めて繋いでいるものなら、彼も自分もそれを友情と呼んで大切にしていけばいい。

「ありがとう.......」
「早く行かないと、あいつに怒られるぞ」
「うん」

助手席のドアを開けて、先ほどの恐怖からか逸る気持ちからか駈け出したを運転席で見送って、笹塚はもう一度だけ小さく笑った。窓ガラス一枚を隔ててこちらを見下ろしていた存在と目が合ったことを思い出す。いっそ睨んでいるのかと思うほど強い双眸は、とてもじゃないが動けないほど弱っている人間とは思えないものだった。

「...ああ...人間じゃあ、ないか」

呼吸のついでのようにそう呟いて、笹塚はそっと車を出した。はビルの階段を駆け上がりながら笹塚に頭を撫でられた暖かな感触を思い出して涙を拭う。例えば笹塚がどんなに優しくて頼れる人であったとしても、例えばネウロがどんなに弱くて性格の悪い人であったとしても、ネウロが突き付けてくる、原石みたいにごつごつしてあちこちが尖っていて大きさもまばらな感情を愛しいと思った、その自分が出す答えはきっとどんな状況でも変わらなかった。どうやったらその感情を上手く受け止められるか、そればかりを考えているうちに多くの奇跡を取り逃したが、しかし、それでもなお尋ねられれば自分ははっきりと答えるだろう。一ミリだって後悔はしていない。そうしてその確信が、前に進むための確かな自信そのものなのだ。

「ネウロ!」

桂木弥子魔界探偵事務所と書かれた立派なプレートのついた扉を躊躇なく開けて、暗闇の中に悠々と座る男に走り寄って飛びつく。結構な勢いで抱きついたというのに、それでも彼の体は微動だにしなかった。ぎし、と暗闇の中で椅子が声を上げる。車が下の道路を往来する音だけが遠慮がちに聞こえる以外は、呼吸すら闇に吸い込まれるほどの静寂しかない。抱きついたらせっかく拭ったはずの涙がまた零れたけれども、ネウロの膝の上に乗せられたは我慢することもなく声をあげて泣いた。それは怖かったからかもしれないし、浅ましい自分が嫌だったからかもしれないし、安心したからかもしれなかったけれども、その答えなんてどうでもよかった。ただ、ネウロがの頭に手をまわして痛いくらい強く抱きしめて頬を寄せる、その感覚をはっきりと感じられることだけがには何よりも嬉しくて、そうして同じくらいに切なかった。

「....無事だな、

ぎゅうと一度抱く腕に力をこめて、低くネウロが呟く。腕が動くくらいには回復したのかと、やっとそこでは気がついた。向かいの建物の明かりがひとつ消える。冷たい頬が耳に触れる。泣きじゃくって高いの体温には、温度のないネウロの体は心地よかった。

「お前はお前と同じ人間を選ぶのかと思ったのだが...それは我が輩の杞憂だったようだ」
「あたり、まえ、でしょ...こんなに好きにさせといて、なに、言ってんのよう...!」
「すきなのか」
「好きよ...好きに決まってんでしょ...他の誰でもなく、わたしは、ネウロが好きよ」
「フハハ....」

体を離しながら掠れた笑みを漏らして、涙で湿ったの双眸に目を細める。美しいなとネウロは思った。見ると甘美なそれはどこか謎と似ていて、とても心地が良い。地上のどこかにある究極の謎を食して腹が膨れたその時にまだが傍にいたとしたら、それこそ最も至福で甘美な瞬間に違いない。

「そうか......では、我が輩もお前のその気持ちに応えてやる」

ほとんど息をするように、静かにネウロが音を紡ぐ。は驚いて、またいつものようにからかっているのかと思ったけれども、見つめてくる男の視線があまりにも真っ直ぐだったのでその可能性はないとすぐに判った。呼吸すら闇に吸い込まれるほどの静寂しかない中で、頬を撫でたネウロの指先がゆるりとの唇に触れる。きらきらと、窓からの光に煌めく雫で濡れた睫毛が瞬きの度に震えるのをもっと見ていたいと思ったが、しかしネウロはその欲望を押し退けての唇に自身の唇を重ねた。何度も何度もその行為を繰り返す。僅かに唇が離れる度に漏れる息が、窓から差し込んで室内を照らす月明かりに溶けていった。










奇跡がはじまる




091308