何と無く、もうすぐ何かが終わってしまって、また新しい何かが始まる
そんな気がしていた

吹き抜けていく風に、少し上を向いて目を閉じる。薄い生地の服がはためいて音を立てた。ぎし、と木の板で作られた小さな橋が揺れて、柵を隔てた先でチョコボが鳴く。色んな匂いがする。赤茶けた土の匂い。止まることのない水の匂い。砂漠に咲く花の匂いや、太陽に照らされた岩の匂い、それから、たくさんの生き物の匂い。それらが綺麗に織り交ぜられて風と共にを掠めていった。せつないな、と思う。この世には完全なる悪など存在しないのに、それでもそんなことにはお構い無しで人々は傷付け合う。守りたいものがあって戦う者があれば、成し遂げたいものがあって戦う者がいる。刃を向けたらその先にいるのは誰であろうと敵なのだ。戦うとは、先に進むとは、守るとは、つまりそういうこと。完全なる悪など存在しない世界の中に完全なる敵を作って、そうしてその存在の排除を目標に生きること。みんな誰かを愛している。みんな誰かを想っている。原因は、たったそれだけだ。とても優しい誰かの気持ちが、いつだって世界に戦いを生み出している。誰が悪いわけではなく、ただお互いの信じるものが違うだけ。そしてそれを知っているから人々はとても苦しい。


「おや、」
「....また平原に出てたのですね、戦士長」
「そちらこそ、またお忍びですかな?殿」
「内緒にしてよ?」
「ふ、ふ、ふ...君の兄上もあの小さなヒュムの少年も大変だな」
「はは、そうね、ばれないうちに帰るわ」
「それで...また何か、嫌なことでも?」


戦士長の声を聞きながら、橋を支える縄と縄の間に座っては川に向かって足を投げ出す。いつものようにそっと尋ねて、ガリフの戦士長は橋の真ん中に立ち、一度空を見上げた。がこのガリフの里に来るのは、もはや珍しいことではない。破魔石についての情報を得るために初めてこの地を訪れてから、何かあるといつもはここに来るようになった。ふらりと護衛も付けずにやってきて、何をするでもなくしばらく風に当たったり、空を眺めたり、地面の上に座ってぼうっとしたりして、気が済むと帰っていく。しかし、その度に話し相手になる戦士長は何をするでもない彼女が「何となく」ここに来ているつもりで、実はそうではないことをよく知っていた。最初こそどこぞの物好きかと思っていたが、聞けば彼女はロザリア帝国の王女であるという。さらに今はアルケイディア帝国の第四皇子と婚約中で、世の中が落ち着いたら挙式するつもりらしい。言って恥ずかしげに笑う彼女はしかしとても嬉しそうに見えた。


「嫌なことなんて、たくさんある」
「そうか」


呟いて、は肩をすくめて空を見上げた。乾いた風が髪を撫でる。


「...君は、いま幾つになる?」
「19よ」
「若いな、とても若い」


少し離れた場所でカツ、と聞きなれた音がして、彷徨わせていた視線を向けるでもなくは苦笑した。情報を聞きつけるのが前よりも早くなっている。


、君はまだ子供だ。君が無理をして大人になる必要などない」
「なにがいいたいの?」
「確かに、...あの小さなヒュムの少年は若い君よりもさらにずっと若くて幼いかもしれないが、しかしそれでも一国を背負うやもしれぬ少年だよ。そなたひとりを支えることなど、すぐに容易くやってのけるだろう」
「それは、どうかしら」
「確かに殿は少々扱い辛い気質ではあるがね」


微かに戦士長が苦笑すると、響いていた足音が止んで声がした。まだ低くなりきらない、幼さの残るそれは川の流れる音に重なって、とても綺麗な音を奏でる。彼は里の中に入っていく戦士長に丁寧に挨拶をしてお礼を言い、橋に座るの傍で、片膝をついてそっと屈んで手を差し伸べた。空で鳥が大きく旋回している。影がそれを追いかけて地面を這って行ったのを、は何とも言えない心地で眺め、そうしてそれから自分を迎えにきた少年の手に自分の手をするりと乗せた。差し出された手に、いつもの手袋はされていない。見ると行き場を失くしたその手袋は彼の左手にしっかりと握られていて、それは彼が手を差し伸べるために手袋を外したのだということを無言で知らせていた。伺いを立てる時、示された意思の真偽を確かめる時、こうすることが彼の癖であることを思い出す。きっと彼もまた、答えを求める者の一人なのだ。優しく笑う目の前の王子を見つめながらはそう思った。


「お迎えに参りましたよ、殿下」
「殿下だなんて、最近は滅多にそんな呼び方しない癖に...もう」
「折角の貴女の逃亡を無粋にも邪魔してしまったので、少しご機嫌を窺おうと思って。」


そう言って悪戯げに笑うラーサーに手を引かれて立ち上がると、は服に付いた埃を払って溜息をつく。冗談なのか本気なのか、いまいち判別ができない。少しだけ自分より背の低いラーサーの、灰色のような青い双眸を見つめる。透き通っていて薄い色の彼の目は、美しい太陽の光を受けるとまるで何かの宝石のようだった。


「それより、


帰るために歩き出したの手を引いて、ラーサーは落ち着いた声音でを呼び止めた。いつからか、敬称を付けずに呼び始めた彼女の名前。もっと近くに感じたくて、もっと近くに感じてほしくて、願うように呼び始めたその音はまるで祈りのような響きをしている。しかし、もしかしたら本当は、離れた歳を気にしたくなくて、気にしてほしくなくて、呼び始めたのかもしれないなとラーサーはこちらを見つめてくるを見てそう思った。そっと、は息をする。ラーサーに名前を呼ばれる時は、いつだってしっかりと返事をしてあげたい。一度だって、聞き逃したくない。ぎゅっとラーサーと繋いだ手に少しだけ力を入れる。

「はい」
「何か、悩み事でも?」
「どうして?」
「...貴女が逃亡するときはいつもそういう時ですから」
「...いや、特に悩み事なんて」
「僕の目を見て、もう一度同じことが言えたら、認めましょう」


ああ、やられた、はそう思って少しばかり眉根を寄せた。年の割には聡明すぎるラーサーの前では、中途半端な嘘など遊びにもならない。チョコボが風に体を揺らして心地良さそうに鳴く声が、辺りに響いて広がる。砂漠の風にさらされて乾いたの唇が、一瞬だけ音を出すことをためらった。



「なに?」
「僕に頼るのは、気が引けますか?」
「......ラーサー、」
「はい」


そっと静かに、ラーサーの頬を両手で包む。じっと一瞬も逸らされずにこちらを見てくる真っ直ぐな双眸に、は優しく笑いかけた。確かに、ラーサーと自分との歳の差は、気にせずに居られるほど小さなものではない。来年20代になる自分も他の人間から見たらまだまだ子供であろうが、そんな自分の目から見ても、13歳の少年は余りに若く、脆く、不安定で危なっかしい。守らなければ、そう思って已まない時も幾多とある。しかし、それでも、政治家たちの批判の視線から、そして人々の好奇の視線から彼を守ろうとする自分の後ろに彼が庇われたことは、今までに一度たりともなかった。むしろ、庇おうと前に出た自分を制止してさらにそれより一歩踏み込むのは、いつだって、ジャッジでも帝国兵でもなく、自分が守ろうとする少年その人であった。頼ってもいい。それは、知っている。しかし問題は、頼れるか、頼りないか、ではない。


「頼れないわけじゃないの、でもね」

いつか彼の声は民を動かし、彼の言葉は平和を紡ぎ、彼の双眸は希望の中へと国を導く。

「じきに、あなたは、あたしばかりを構っていられなくなるのよ」

国の頂点に立つということは、即ち、国を第一に考えるということ。アルケイディアは大きな国だ。国民の生活を守り、国の発展に尽くし、平和を維持して未来へ繋ぐことも、そうそう容易いことではないだろう。はさらさらと風に揺れる、絹糸のようなラーサーの髪を撫でた。愛が、ない縁談ではなくて良かった。彼への愛があるからこそ、自分の気持ちは揺らがずに居られる。


「前を向いて、国を導いて。ラーサー、わたしは、あなたの治世を平和に引き継がせるために必要な」
「それ以上の発言は控えてください」


ぐ、と頬に宛がっていたはずの手をラーサーに掴まれて、はっとしては目の前の少年を見る。強い意志を秘めた双眸は、少年とはいえやはり王族に相応しい権威を窺わせた。


「あなたは、道具ではない」
「.....ラーサー」
....あなたの中から、そしてこの世界から、その考えが消えるまで、僕はあなたとの間に子供を望みません」
「じゃあ、他の人との間にならいいの?」
「ふざけないで」


からかったわけではない、そう言おうとしたは、しかし、手を掴む力の強さに言葉を呑んで閉口した。なんだか、泣きそうだ。ロザリア帝国の王女として自分のことを大切に扱ってくれる人々は生まれた時からたくさんいた。生まれてから今まで、ずっと幸せに、安全に暮らしてきた。だから、大切にされることには慣れているし、そうやって大切にされた時どうすればいいのかも、分かっている。けれども、頭では分かっているのにそれが上手くできなくて、堪らずは苦笑した。そうして気付く。

ああ、違うんだ。
ラーサーが、わたしを大切にしてくれるのは、


「好きです」
「........と、つぜん、なにを」
「突然ではありません。僕が、、あなたを好きだということも」


乾いた風が髪を撫でる。微かな花の匂いに混じって、とても身近な人が愛用する香水の匂いがした。


「ひとりの人さえ愛し通せないような人間では、到底国を背負うことなど出来ないということも」
「あ」
「ずっと、ずっと、思っていたことです」


優しい双眸が瞬きの度に陽に煌いて、手のひらを通して小さく、しかし確かに、心音にも似たラーサーの脈拍が伝わってくる。もはや、風の音すら聞こえなかった。ラーサーに捕まれた手が、優しく引かれて、はそっと、ワルツを踊った日のことを思い出す。あんなに上手く、人生を踊っていくことはできないだろう。様々な困難も、遠回りも、失敗も、危険も、きっと至る所で自分たちを待ち受けている。楽な道ではない。楽しいことばかりではない。そう思えば先に進むことは怖かったが、それでも、頬を滑るラーサーの手のひらに自分の手を重ねて、やんわりと笑うラーサーに微笑んで双眸を伏せて、一度、唇を重ねれば、そんな考えなど散り散りになって跡形もなく消えてしまっていた。手を引かれて、はラーサーと共に里を後にする。穏やかに大地を掠めて流れ去る風は、まだどこかの花の匂いがした。











  と


 砂



      に

   隠



 た

  あ
   の

     過
   去
 の

      こ
     と











101108
(頼れる人が居るからこそ出来る無茶がある)