聞いてはいたけれども、それでも想像以上に冷えるなと言いながら、彼女は毛皮で作られた大きめのショールを掻き寄せる。少し前を歩いている男に手を引かれて艦艇を降りると、さく、と雪が圧迫される心地よい音がした。





「兄さま」
「んー?何ですかな、姫」


兄さま、と呼ばれた肌の浅黒い男がへらりと笑いながらそれに答える。と呼ばれた娘は兄であるマルガラス帝国の皇子アルシドと並んで歩きながら、目の前に広がる大きな神殿を見上げた。辺りには数えきれないほどのテントと、そこに収まりきらない数の人々が佇んでいる。誰一人として笑みさえ浮かべない異様な光景に、は密かに眉を顰めた。


「嫌な胸騒ぎがする」
「…そりゃあ、ねえ。見ての通り、世界はいま大変ですから」
「…ラーサーが心配だわ」
「おやおや、久しぶりに帰ってきたと思ったら…うちの可愛いお姫様はすっかりラーサーにお熱なようで」


アルシドが大げさに残念そうな身振りをして溜息をつくと、はすっと目を眇めてそれを見る。ちらちらと降る雪が頬や瞼に触れる度に溶けて流れるわけでもなく消えていった。世界が白い。吐く息をひとつ眺めて、アルシドはの痛い視線に苦笑すると、一言、本当に、と呟くだけでそれ以外は何も言わなかった。ラーサーの父親であるグラミス皇帝が暗殺されたことは、には伝えていない。しかし、が覚えた嫌な胸騒ぎは決していま目の前に広がっている光景から来るものでも、ましてこれから起こるか起らないか分からない戦争へのものでもないことは明白であった。そうして、それはつまりがそれ以外の何かしらの不安要素--たとえばが愛する皇子の心身の安全--を案じたということ以外に他ならない。何と敏い娘か。アルシドはそう思ってサングラスの奥で目を細めた。もうすでに非情な現実はほつれ始めている。アルシドを見据えるの双眸は、しっかりとそれを知る者の眼であった。


「あたしを向こうに置いたのは、兄さまでしょ。それなのに、今度はあたしを連れ戻すなんて。」
「私だって出来ることなら可愛い妹の幸せな恋の邪魔なんて野暮なことは、したくはなかったんだけどね」
「じゃあ」
「でもこうせざるを得なかった。…やつらに巻き込まれて、お前までを失うわけにはいかない」
「あたし、まで、をも」
「…分かっていただけたかな?…そう…皇帝はお亡くなりになられたよ、


雪が軋む音を耳にしながら、諭すように言われたは驚いているのか放心しているのかすら分かりかねる様子でそっと辺りに力なく座り込む人々を眺めた。アルシドの衝撃的な言葉を脳内で一度だけ、繰り返す。そうしてまた毛皮を掻き寄せて息を吐く。グラミス皇帝が亡くなったなど。それは紛れもない事実ではあろうが真実ではあるまい。元老院らの思惑も、ジャッジたちの分裂も、ヴェイン・ソリドールの言動も、どれもが不穏であったことは分かっていた。ならば辿り着く答えは自ずと絞られる。暗殺だ。驚くほどすんなりと浮かんだその言葉に、ああ、とは一度だけ強く唇を噛んだ。じわりと涙が滲む。堪える間もなくぽたりとそれは白い雪に扮して落ちた。


「グラ、ミス、皇帝が…」
「……私も残念だよ。お前のことを可愛がってくれていたと聞いているのでね」
「…陛下は、いつもわたしを気にかけて助けてくださった、優しいひとだったのに……」
「…泣きなさんな、赤い目だとラーサーに何を言われるやら」


そっとアルシドがの頭を撫でる。そうして、はそれを合図に涙を拭って前を向いた。グラミス皇帝はもういない。もう一度暗記するかのように呟いて、しかしは頭を振った。確かに寂しいけれども、違う世界に旅立っただけで、この世界にだってまだ彼の残したものが息づいている。


「まだ、わたしにはラーサーがいる。偉大なるグラミス陛下の血を引く彼が。」
「.....ショックを受けるだろうな、あいつ」
「...フォローするわ」


は苦虫を噛み潰したかのような笑いを浮かべて微かに一言吐き出した。悲しいことに、問題はこの、過ぎ去ってしまったものだけではない。戦争の可能性だって待ち受けている。自分の祖国と愛する者の国が戦争だなど、一体これはどこの退屈を持て余した作家が作った物語だろうか。ばからしい。自分が一生を賭ける気持ちでロザリオからアルケイディアに行ったことさえ、これでは全く意味を成さない。戦争は何も生まないということは万人が承知しているはずなのに、その行いは延々と繰り広げられる。この世界では、平和を望む心より、憎しみに染められた心のほうが、欲望に歪んだ心のほうが、ずっと強くて多くて大きいのだろう。神殿前の石畳を歩くと、かつかつとヒールが地面を叩く音がした。人は大勢いるにも関わらず異様なほどに静まり返った神都には、ずっと神殿の前でかしずいて祈りを捧げる信徒たちの声が朗々と響いている。階段で一心に祈る信徒らの姿は、時間など、ここには存在しない、まるでそう錯覚させるかのような光景だった。ラーサーの、優しく、しかし強い決意の潜んだ微笑みが浮かぶ。平和な世界を。彼がいつも願っていることは、この土地にも届いているだろうか。何年も何年も、世代を超えて人々が祈りを捧げてきた場所。何年も何年も、人々の祈りを何も言わずに受け入れてきた存在が眠る場所。ああ、とは神殿の階段を上って呟いた。時間などなくとも人々は動く。思惑のもとに。欲望のもとに。希望のもとに。時間は流れているのではない。生きている存在そのものが時間を動かしているのだ。


「いつ、ラーサーの許に?」
「会うだけなら、そう待たずともいいんだがね」


帰すともなると、そう言葉を続けて、神殿内に通されながらアルシドはそっとの頭を撫でた。


「まだ、何とも言えない…それが正直なところだ」
「…仕方がない…か」
「辛いだろうが、聞き分けがよくて何より。……さあ、」


ひとつの部屋の前で二人が立ち止まると、白い服を着た僧正らしき人物が大きな扉を開ける。そうしてアルシドはエスコートするために預かっていたの手を離した。大きな部屋の中に見えるのは、何やら様々な種類の人々が入り混じった集団と、アナスタシス大僧正、そうしてその奥にいる、凛と佇む若い少年。は一度アルシドに視線をやると、それを見て先に歩き出した兄を数歩分見送って、そうして瞬きをしてから自身の足を踏み出した。カツ、ンと細いヒールの蹄の音が高く天井まで響き渡る。何やら話し込んでいたらしい輪の中に、割り込んで入っていく兄の半歩後ろで、はすっと立ち止まった。ラーサーがふっとに視線をやって、その後アルシドへとそれを移してその場の人々にアルシドの人となりを紹介しているのを、どうしてもは微笑んで見つめることができなかった。脳裏を掠めるのは、先ほど涙と一緒に呑み込んだはずの現実。


「それから、彼女は彼の妹君の、皇女。私の、婚約者でもあります」
・マルガラスと申します」


紹介を受けたと気が付いて、一様に驚きを露わにする見知らぬ集団とにこやかに笑んだラーサーに向き合うと、は渦巻く思考を排除して酷く優雅に拝礼した。途端、優しい声が傍に広がる。


「…、お久しぶりです」
「元気にしてた?ラーサー」


自分の名前を呼んだ少年を見、僅かに破顔したにラーサーは微笑んでそっと傍に寄ると、その手を取って流れるような所作で唇を落とす。手袋越しに伝わる柔らかな熱に、緩やかにの形の良い唇が弧を描いた。愛しいと思う感情が満ちて溢れて行き場をなくして熱を持つ。しかし、その思いが募るほど、これから告げられるであろう事実をまだ知らない幼い少年への悲しみが増していく。


「ラーサー…………」
「………どうか、しましたか?」


ラーサーの、敬愛を意味する口づけに答えるようにが彼の頬にキスをして、そうしてそっと耳元で呟くと、ラーサーが少しばかり苦しげに眉を寄せてそれに返答をした。繋いだままの彼の手を強く握ってやる。いいえ。そう言ったはずの声はしかし音にならずにアナスタシスとアルシド、アーシェの声に掻き消された。いいえ。もう一度、今度は胸中ではっきりと強くそう呟く。徐々に加熱する周りの会話に耳を傾けながら、は一瞬たりともラーサーの手を放そうとはしなかった。そうしてついに、その瞬間が訪れる。強く強く繋いだ手が震えているのは、のせいなのか、それともラーサーのせいであるのかは分からない。それでも、どちらもが沈黙するしか出来ないということだけははっきりとしていた。ぱらぱらと、先程までは雪だったはずの雨の音が外に広がる。沈黙していたラーサーを気遣うように見遣って次の目的地へと足を向けたアーシェ一行が、部屋を退出して数分が経ったのち、やっと、ぽつりぽつりとラーサーの声が室内に広がり始めた。


「…父上が…」
「……ラーサー…」
「…すみません、…」
「え?」
「もうしばらく、ここに。僕から、一番近い所に」


いてください。微かに掠れた声でそう告げたラーサーは、繋がれた手を強く握り返して俯く。ああ、震えているのはこの人だ。泣くことを堪えているのも、現実を受け入れようと苦しんでいるのも、苦しみに耐えようとしているのも、ぜんぶ。


「…いるわ」
「……ありがとうござ」
「これからしばらくは、兄が何と言おうと、あたしはあなたと帝国にいる…」


そう言って、自分よりも少し背の小さな少年を、はそっと抱き込んだ。彼の頭に頬を擦り寄せて目を閉じる。父親の死を知らされた動揺からか、どくん、どくんといつもよりもずっと早く強く鳴る彼の鐘の音が、とても熱いような気がした。一方で、礼をいうことを遮られて告げられた言葉に、ラーサーは呆然と抱き寄せられたまま双眸を見張る。その会話を掠め取ったアルシドも、こればかりはと両手を挙げて少しだけ声を強めた。アナスタシスは相変わらず双眸を伏せて事の成行きを見つめている。


、そいつは聞けないお願いってもんだ」
「アルシドさんの言う通りです、、今の帝国はあまりに」
「…死んでもいい」
「え?」
「死んでもいいわ」
!」
「…そんな言葉を、軽々しく口にしないでください」
「……軽々しくなんてない。一人で行かせて、今度はあなたを失うかもしれない恐怖に震えることに比べたら」


死ぬかもしれない場所に居ることなんて大したことじゃない。はラーサーを抱き寄せたまま外に降る雨の音に耳を澄ませた。白い糸のような雨の音だった。そうしてそれよりずっと近くで響くラーサーの心音に意識を移しながら、自分で言った言葉を思い出す。死んでもいい。そう吐き出した言葉は強がりではなく、わたしの錯覚でもない。ただの現実だ。つまり、前より強くなったということを示す事実、これはそれ以上でも、それ以下でもない。女は男によって強くされるもの。そうして男は、女によって支えられるものだ。


「どんなに危険か…………それを知っていて尚、僕の、傍に居ると?」
「うん」
「……ありがとう、
「うん」


そっと、ラーサーがの背に手を回して泣きそうに笑う。笑いながら、彼は心とは何だか不思議なものだなと思った。父の死を聞いた時はこの先のことなど全く考えられなかったほどなのに、に抱きしめられて一言二言会話をしただけで、気が付いたら、何があっても折れるわけにはいかない、そう覚悟していた。不意に、ごう、と酷く不穏な音が重く地上を揺らす。聞きなれた類の圧力的な声がいくつかの機械を通して地上に降って、雨の音をかき消した。ラーサーを抱きしめていたが彼から身を離しただけで、慌ただしくなる周囲とは裏腹に、室内に驚く者はひとりもいない。アルシドはこの先にやってくるであろう危機に身構えながらも、小さく諦めの溜息をついた。すべての努力が報われるとは限らない、とはまさにこの事だ。


「本当は引きずってでもをうちに連れて帰りたいんだが…泣かせるわけにもいかないし仕方がない。剣豪のお前と本気で戦う気もないしな」
「素直に、僕を信用している、と言って頂けたら良かったのに」
「うちの可愛いお姫様を頼んだぜ」
「全力で守って見せます」
「来るわ、ジャッジ・ベルガとジャッジ・ガブラスよ」


まるで森に棲む動物のように忙しなく四方に視線をやっていたが、一瞬ぴくりと体を揺らして一点のみをじっと見つめる。どこから入ってくる風なのか、生温い空気の揺れがの長い髪を踊らせ毛皮を撫でた。そっと、ラーサーがその傍に寄り慣れたようにの手を掬って繋ぐ。とくん、とくん、と彼の鐘の音は普段の速さを思い出して優しく鳴っていた。ラーサーがいるだけで、にとっての怖いものはほとんどなくなる。嵐の前の静けさと言うべき静寂に肌を打たれながら、は確かにそう思った。何も言わずに手を握ってくれているラーサーを見る。彼は揺らめく空気の作る強い風の中でも凛と立ち、先ほどまでが見つめていた一点に視線を向けたままで緩やかに瞬きをするところであった。視線に気付いたのか、強くて優しい声音が何より綺麗にの名を呼ぶ。



「はい」
「僕は、これからあなたを危険の中に連れて行きます」


すみません。そう言ってラーサーは困ったように笑って、やんわりとその視線をへ向ける。不安ではないだろうか、そう思って窺った柔らかそうな睫毛の影を映すの双眸は、しかし、一抹の不安さえなく真っ直ぐにラーサーを見つめていた。ああ、と思わず溜息をつく。この先どんなどん底で出会う悲しみの中でも、危機の中でも、闇の中でも、きっと自分は彼女が好きで好きで、そうしていつだって自分の身よりも大切にしていくのだろう。訳もなく、しかしそれでもどんな確信より強く、ラーサーはそう思う。そんな様子を見、ふっと音もなく微笑んだあと、はラーサーの額にキスをした。じわりと温かな熱が唇に伝わる。外では相も変わらず灰色の空が溶けて降ってくるように、光を反射するだけの雫が意味もなく大地を湿らせていた。











唇が渇く前に君をしてしまいたい









101908
(愛のために努力を惜しまないひと)