何千年、何万年、何億年たっても




ああもう、と悪態をつきながら、がちゃり、と見慣れた扉を開けると、いつものように優しい珈琲の匂いがした。まるでカフェーのようで、しかしカフェーのざわめきなど何処にも見当たらないその静かな空間に一歩足を踏み入れて、ただいま、と言えば、当然のように、お帰り、と声が返ってくる。それはよくある緩やかな昼下がりの光景だったが、しかしつい先刻突然降り出した雨はまだ止まないようで、一番奥の席に腰掛ける男の向こうに見える空はどんよりと曇っていた。扉を潜って数段ある段差を下りながら、その突然の雨にまんまと打たれたわたしは密かに溜息を吐く。どうやら今日はツイてない。雨に降られたばかりでなく、来客がいるようだ。それも、わたしが心中穏やかでいられない来客が。

「こんにちは、さん」

椅子に座り、珈琲カップに手を添えながら、綺麗な髪をこれまた綺麗に縦巻きにした少女が薄く笑う。ああやはり美しいなと思いながら、ずぶ濡れのわたしは腹の底で渦巻いているものを抑えて極めて自然に挨拶を返した。これは、美しいものに対する嫉妬ではない。自分の手元にあるものを奪われるのではないかという警戒心だ。しかしいくら警戒したところで、わたしには彼女の行動を止める権利もないのだから、どうしようもない。

「あーあー、ちゃんずぶ濡れじゃないか」
「雨に降られたの、ツイてない」

窓際の椅子へ座り珈琲を飲む男に溜息とともにそう告げて、ふと、床を濡らしてはここの雑務全般を任されている男に申し訳ないだろうと思ってひとまず段差に腰を下ろすと、すぐに奥の部屋からその男がやってきた。彼が持ってきた、几帳面に折りたたまれたタオルを受け取りながら、わたしはもう一度溜息をつく。タオルを手渡したまま傍に佇む男が何か言い掛けたが、それよりも奥の男が不敵に笑って呟く方が早かった。

「まあ確かに雨に降られたのはツイてないが、俺は雨に濡れたちゃんも相当色っぽくていいと思」
「鳴海さん」
「...冗談だよ」
「ライドウ先輩も大変ですね」

膝の上に黒い猫が乗ってきたことにも、髪や洋服から滴る雫にも構わず、ライドウと呼ばれた傍の男と、鳴海と呼ばれた奥の男と、くすくすと可笑しそうに笑う縦巻きの女の子、凪のやり取りをぼんやりと眺める。ゲイリンの弟子である凪が、ライドウのことを先輩以上の存在として見ていることにはだいぶ前に気付いていた。しかしライドウ本人にはそういう自覚(つまり自分が色んな女子を惑わせているという自覚)はないようだし、そもそも多くの婦女子に好かれることに対して特に彼が何か悪いことをしているわけでもない。それに、わたしには、それについて彼を責めるつもりなど、微塵もない(あってはならない)のだ。何せ、彼は帝都守護の任に就く者であり、その双肩にかかる期待の重圧といえばとても常人には計り知れないものである。そんなものを背負っている少年に、果たして一体誰が、さらなる負荷を掛けようと思うのか。そんな酷なこと、やるとすれば彼をこき使う某組織くらいだろう。3人の会話の様子からいつの間にか思案に耽っていたわたしの腿の上で、ゴウトという名の黒い猫が一つ鳴いて、わたしははっと意識を戻した。

、体調でも悪いのか?』
「そんなことないわ、にゃー」
、タオルを」
「なんで、まだ拭いてないわよ」
「待っていたら日が暮れる」
「何それ」

わたしの悪態に学帽の下で薄く笑んで、ライドウは軽やかにわたしが座るより上の段差に腰掛ける。彼の脚の合間に座る形になって思わず背後の彼に寄りかかりそうになるけれども、全身ずぶ濡れではそうもできない。もう一度溜息をつくわたしの膝の上では、相変わらずゴウトがわたしを見上げながらにゃあにゃあと鳴いている。ライドウの手が、手際良くわたしの髪から雫を拾っていく。この手を離したくなくて、わたしは今までずっと必死だった。ずっと、わたしだけが必死だったのだ。もう長いこと彼の傍にいて、彼がわたしにどれ程の愛情を注いでくれているのかということは疑いようもないほど分かっているはずなのに。

「仲が良いんですね」
「いつもあんな感じなんだよねえ」
「そうですか...」

ああ、一人になりたい、と思った。一人になって、誰のことも何のことも気にせずに泣いたり、黙ったり、考えに耽ったり、憂鬱になったり、眠ったりしたい。そっと膝の上のゴウトを下ろして、その欲望の実現を決意したわたしは、ライドウの優しい手から逃れて立ち上がる。あんなに離したくなくて必死だった彼の手はするりと容易くわたしとの繋がりを失ったけれども、そのことには気を配らずに、わたしは一つ申し訳なさそうに笑んだ。

「もういっそ、着替えた方が早いと思うの。着替えてくるわ」
「風邪引く前に行っておいで、珈琲淹れとくよ」
「正しい予測のカテゴリーだと思います」

「すぐ戻るわよ」

僅かに制止の色の滲んだライドウの声に返事をして、わたしは探偵社と廊下を繋ぐ扉を閉める。自分に割り当てられている部屋の扉を潜って濡れた服を脱ぎ捨てると、もろ肌に生乾きの髪が触れた。乾いてこそいないけれども、先程のように雫が滴ることはない、柔らかなわたしの髪。先程の様子を思い出して、胸が詰まって、涙が溢れた。ベッドに寝転んで顔をうずめる。静寂の中、ゆるゆると窓を叩く雨音がして心地良い。もうこのまま、悪魔の一体でも召喚して眠ろうかと思ったけれども、珈琲を淹れて待ってくれる人がいるなら今はまだそうすべきでないとどこかで思ったし、どうやら同じ考えの人間がもう一人いるようであったので、わたしは結局思い切り泣くこともできないまま、ベッドの上で涙をぬぐった。

、入っても?」
「着替え中だからゴウトはだめよ」
『...』

かちゃり、と音がして、ライドウだけが部屋に入ってくる。ゴウトは探偵社の方に戻ったんだろう。床に脱ぎ捨てたままの洋服を几帳面に拾い上げて片付けるライドウをベッドの上に倒れ込んだまま見遣れば、彼はふと視線をこちらに寄こして、何、と言う。雨音と静寂の合間に響く彼のその声には、こんな状況でさえ一切の疎ましさも煩わしさもなく、それがまたわたしの涙腺を緩ませた。

「洋服なんてあなたが片付ける必要ないじゃない」
「放っておくわけにもいかないだろう」
「...葛葉ライドウがすることじゃないわよ」
「それは自分が決めることだ」
「それもそうね...」
「...」
「なにか言いに来たんでしょう、座れば」

洋服を片付けてベッドの傍らにやってきたライドウに座るよう促すと、ライドウは近くにあった椅子を寄せて腰掛ける。しかし彼が何か言う気配もなく、わたしは彼との静寂の合間ずっと、雨脚が強くなって、空から降る雨粒が次々に窓ガラスに当たっては砕けて落ちていくのを眺めていた。時計の針の音と、雨音と、微かな呼吸の音と、自分の心臓の音。耳を澄まして聴こえるのはたったそれだけの安らいだ空間で、わたしが小さく蠢くと、ぴくり、と傍に座るライドウが反応する。ライドウは不思議な男だった。傍にいて一度も息苦しさを感じたことがない。かといって、存在を感じないかと言えばそうでもない。目を瞑っていても、余所を向いていても、彼がいることは分かる。それなのに、そこには「他者」という存在が持つ一切の煩わしさがない。

「ライドウ」

心地好い静寂を壊したのは、結局何か言いに来た彼ではなくわたしであった。

「あなたの意志で選んでも、わたしだった?」

窓の方を向いて雨を見つめたまま問いかける。昔、彼とわたしの縁が繋がった時の話をするのは、これが初めてのことだった。わたしにとってその縁は最初こそ嬉しくもあり、辛くもあり、恐ろしくもあったが、彼を愛してからは幸運の一言に尽きるものだ。しかし、彼にとっては、共に戦えるサマナーの方が良かったのかも知れないし、そもそも居ない方が良かったのかもしれない。わたしと彼では立場が違いすぎて、予測すら立てられない。

「昔なら誰も選んでいない」
「そう」

ライドウの静かな言葉に、納得して相槌を打つ。それはわたしの予想通りの返答だったので、特に驚くこともなかった。しかし再びライドウが口を開いて、

「でも今ならば、自分は貴女を選ぶと思う」

と言った時、それが紛れもないライドウの答えだと知って、わたしは自らの望んだ答えの重さに息を詰めて黙りこんだ。背中にライドウの柔らかな視線を受けながら、目を閉じて、先ほどのライドウの言葉を胸中で反芻する。
-でも今ならば、自分は貴女を選ぶと思う。
彼が一体何を理由にその答えを出したのか、わたしにはわからない。ベッドにうつ伏せたまま、くるりと視線を窓からライドウへ移すと、振り向くと思っていなかったのか、彼は少々驚いた様子でわたしを見詰めた。

「わたしは面倒よ」
「そうだな」
「洋服は脱ぎ捨てるし、こう見えて結構思い込み激しいところもあるし、頑固だし、欲張りだし」
「承知している」

ライドウは困ったような笑みを僅かに浮かべて、椅子に座したまま一つこくりと頷く。しかし、頷く彼を見てもわたしには合点がいかなかった。面倒だと知っている女を選ぶ理由が見えてこない。ライドウ、と呼んでわたしはベッドの上から起き上がった。未だ僅かに湿った髪が肩を滑り落ちる。衣服は纏っていなかったが、気にならなかった。他人ならともかくライドウに対してはその手の羞恥心を一切持っていない。



窘めるようなライドウの溜息交じりの声に構わず、わたしは真っ直ぐにライドウを見据える。ライドウは静かな双眸でわたしを見詰めたまま、しばらく沈黙した。それは、腹の内をどう言葉にすべきか、迷っているようにも見えた。

「自分は、ライドウとなるためにずっと、外界と断たれた里で修行を積んできた」

だから。ライドウがそっとシーツでわたしを包んで、言葉を続ける。窘めるように言った割には、裸体に触れるライドウにも羞恥心らしきものは見受けられない。

「守るべき民がどんな存在なのか・・・普通の、人間とは、どんな存在なのか、自分には分からない」

片膝を床に付いて、ベッドの上に座るわたしの手に自分の手を重ねて、言ったライドウの言葉に、はっとする。ライドウはそれにふ、と小さく笑んで、それでも言葉を続けた。

「知っていたいんだ。守るべき物を曖昧にしたままでは、きっと何も守れないだろう」
「だから、俗世に染まりきったみたいな面倒な子がいいってことね?」
「...君は歴とした葛葉の人間だというのに、随分棘のある言い方をする」
「冗談よ」
「...彼女のことが気にかかっているんだろう」

一瞬、一層、雨の音が、響いた。もちろん、彼女、が誰を指すかなんて分かっている。凪のことだ。わたしが口を利けないままライドウを見遣ると、彼はその静かな目でわたしを真っ直ぐに見詰める。何の嘘もない、強い意志の潜んだ双眸が、わたしの呼吸を奪う。何て強い双眸だろうか。そう思う合間に、ライドウの指先が静かにわたしの頬を一度だけ撫でて、離れていった。

「...着替えを。鳴海さんが珈琲を淹れてくれている」
「ライドウ」

立ち上がって席を外そうとするライドウに思わず名を呼ぶと、彼は静かに立ち止まって、僅かに振り返る。勢いで引き止めた手前、特に引き止める理由もなかったわたしが慌てて言葉に詰まると、彼は少しの間沈黙したのち、心配しているのか、と尋ねた。それに対して、少し、とわたしが答える。雨の音が降り注ぐ。カチ、コチ、と絶え間なく時が流れる。それらをすべて凌いで、ライドウの声が部屋に満ちる。わたしは彼の、一瞬の微笑みを見る。

「...貴女が泣くようなことは決してしないと、随分昔に誓っている」

心配しないでいい。ライドウはそうとだけ言って深く学帽を被り直して、部屋を出て行った。泣いていたのが、ばれていたのだろう。わたしはそうっと、先程彼が触れた頬に手を宛がいながら、ベッドから降りる。昔から彼はわたしの涙に、酷くショックを受ける人だった。それがもしも、先の言葉通りのことを彼が自身に誓っていたせいなら、真面目な彼のことだから、今もきっとショックを受けていたに違いない。それを思うと、わたしはもう一度泣きそうになる。それでも、涙をぐっと堪えて、着替えをする。早く戻ってあげないと、きっと今度は彼が泣いてしまうんじゃないか、と有り得ないことを思いながら部屋を出れば、予想外にもその彼は廊下の壁に背を預けてわたしを待っていた。わたしが出てきたのを見計らって、ライドウは手を伸ばす。わたしを捉まえて、ぎゅうと抱きしめる。息が詰まって、苦しい、と言い掛けたわたしの耳元で、すまない、とたった一言彼が呟く。何て人だ、と思った。謝らなければいけないのは、自分だというのに。

「不安になって、ごめん」

そう言って、わたしは彼の腕の中で顔を上げ、手を伸ばして、ライドウの頬を撫でる。こんなに大切にされているのに、惑うような女でいて、いい訳がない。変わらなければならない。

「ライドウ」

彼と目を合わせる。どちらからともなく、唇が重なる。一度ばかりの口付けと、薫る彼の香りに、離れがたくなってライドウの胸に顔を埋めると、彼は何も言わずにもう一度の抱擁をわたしに与えた。事務所の扉の向こうから、優しい珈琲の香りがする。ああ、彼を連れて、はやく戻らなければ。





きみはぼくのとくべつなひと



102411