さあ、と言って、彼はゆっくりとわたしの肩に手を乗せた。もう日が暮れて、随分と経つころであった。辺りは一面きらきらと輝く紅葉だらけで、大層綺麗だったはずなのに、世界を照らす太陽が沈んでしまった今では、ちっとも綺麗になんか見えやしない。闇を抜ける風は冷たくて、聞こえる葉擦れの音は、いつの間にか優しい囁きのような声から、恐ろしい呻き声のようなものに変わっていた。わたしは堪らなくなって、昼間見た町の様子を思い出す。世界の広さを見てみたいと言って、何年も前にこの町を飛び出して行って以来、久しぶりに見る故郷は、相も変わらず、美しかった。幼い頃から変わらない景色、懐かしい面々。思わず胸に懐かしさが込み上げるのを、わたしは確かに実感した。そう思っていた。けれども、それと同時に酷く、ここがわたしの知らない場所のような気もしていた。泣いてなんかいないのに、泣かないでと言って、綺麗なトパーズの色の髪をした青年が屈み込む。やさしい、夜の匂いがした。これも、とても良く知っているようで、ほんの少しも知らない気がする。


「こんなに冷えてしまっては、いけないよ」
「いいの」
「良いわけないだろう?」
「ひとりで居たいの」
「それなら、それでもいい。そういうのをダメだというつもりは、ぼくにはないよ」


でも、風邪を引いては心配だから、ちゃんと寒くない格好をして欲しい。僅かに苛むような彼の声が、森とした小道に響いた。地面に落ちた紅葉が、膝を抱えて座るわたしの頭上高く舞い上げられて風に流されてゆく。浮上、墜落、沈黙、静寂、森閑、寂寞。それらの、ああ、なんと淋しいことか。わたしは思い切り膝を引き寄せて顔を埋めた。どこか近くで、夜行性のいきものの気配がする。地面に敷き詰められた石畳の冷たさが、じわじわと落ち葉の合間を伝って座り込んだわたしの体を冷やす。高いところで、微かに鈴の揺れる音がする。何十年にも、何百年にも、動じない世界の重さが落ちてくる。何年も、世界を飛び回って過ごして、一体わたしは、何を知っただろう。何を見ただろう。何を得ただろう。考えようとすればするほど、失ってしまったものばかりが頭をよぎる。本来であれば家族と過ごすはずだった、多くの時間。友人たちとの青春の日々。取り戻そうとしたって、過ぎてしまった時間は元には戻らない。友人たちはすでに故郷を離れて、それぞれの道を歩んでいる。みんな、わたしが知らない時間を経て、今を生きているのだ。そんな彼らの過ごした時間の中には、わたしの思い出などひと欠片だって、存在してはいないだろう。わたしが知っているのは、昔の彼らであって、今の彼らではない。そう思ったら、本当に堪らなくなった。帰ってこなければ良かったとさえ思った。きっとこれは世界からの、故郷という狭い世界からの、絶縁状なのだ、と思わずわたしはそう信じていた。


「もう、いいから、」


マツバは帰っていて。わたしが苦労してその一言を告げると、途端に彼はすこし困った顔をした。


「でも、ぼくが帰ったら、誰がきみを家まで送り届けるっていうんだい」
「家に帰るくらい一人で平気よ」
「いいや、今のきみじゃ、一人で家には帰れないよ。きっと今夜一杯、ここにいる」


わたしは思わず、そんなことはない、と言った。けれどもそれはとても弱弱しくて、結局自分自身で彼の言葉を肯定しているようにしか、聞こえない。それで、わたしがこれ以上反論をしても仕方が無いと悟って口を噤んで黙っていると、彼はわたしの前に屈み込んだまま、そうっと微笑んで、「久しぶりに、抱きしめてもいいかな」と、少しばかり遠慮がちな声音でわたしに尋ねた。わたしがそれに、やや緊張を孕んだ表情でゆっくりと頷くと、彼はもう一度屈託の無い笑みでわたしを見つめてから、ありがとう、と呟いた。それから、ぐいとわたしを引き寄せる彼の力は、わたしが知っているどんな時よりも強かったけれども、それでも相変わらずあたたかくて、懐かしい匂いもした。両手を広げてわたしを受け容れてくれる相手を、昔と変わらないものを、見つけて安心した所為で、ずっと我慢していた涙が零れる。あまりの静寂に、その音が聴こえてしまうのではないかとわたしは少し、不安になったけれども、聴こえてきたのは、涙が落ちる音でも、風の音でも、葉擦れの音でもない、彼の心臓が奏でる心地良い音だけであった。










さみしさで死ぬことは叶わない




111909