「アレン...?」



強く打った頭がぐわんぐわんと世界を揺らす。江戸の空はアクマの色をしているのだとは予測すらしなかったの背中や腕や足は軋んで痛い。そうしては吐き気のする身体を支えるその手に緩やかに、しかし強烈に、ぞくりとした。感覚が鮮明によみがえる。甦って思い出して実感する、それは懐かしいほど恋しかった匂い。悲しいほど優しかった声。疑いたくなるほど力強かった姿。そしてわたしの世界を支配し闊歩する男の、困ったような優しい微笑み。

「ただいま、...

確かめるように、或いは少し怯えるように小さく言葉を紡ぐアレンはそれでも安堵したように深くを抱きしめる。懐かしい愛しい匂いが酸素と一緒に肺に滑り込んで、くらくらした。それは白い雪の、世界の一番高い所で見上げる空の、冬の山奥で見る砂金のような星の、匂い。 耳元で何度か彼の唇に紡がれた音に、の心臓が小さく震える。何をどう言ったらいいのか、何から話せばいいのか、分からずに困惑するはしかし、名前を呼ばれてぎゅうと抱きしめられると、愛しいとか嬉しいとか、そういった絶大であったはずの感情すら思考から飛んでしまって、ただバカみたいに泣きじゃくってひたすらアレンの名前を呼んだ。アレンはやんわりと笑んだままそれを享受する。きっと恐らくはたくさん泣かせてしまったのだろうけれど、それでも同時に同じくらいたくさんの我慢もさせてしまっただろうと思うアレンは何も言わない。代わりに前よりも幾分か力強くなったその腕の中でを安心して泣かせてやることに専念した

「ばか...なん、なんで今更帰ってくるのよ」
「なんでって、、それ少し酷くな」
「死んだとまで思ったのよ、あたし、あんたが...あんな風に消えちゃうから...!」

その光景を思い出したのか、一気に捲くし立てるの双眸から滂沱と涙が溢れる。それさえも、その涙さえもを綺麗だなと思うアレンは、そうしてその全身で再会の喜びを実感した。己を誇って咲く花々の色、地面を染上げる力強い草の色、近いようで遠い宇宙の色、墨を溶いた睫毛の色、震える唇の色、彼女の双眸や涙に映る自分の髪の色。無色透明なはずの彼女の涙が綺麗なわけは、それに混じって流れる彼女の世界だ。ああ、どうか、なにものにも染まらないで。そう強く思うアレンはきっとそのためになら何だってする。

「僕は、またに会いたかったんです」
「アレン」
「子供みたいに唇を尖らせたり何にでも笑ったり今みたいに人のことバカって言って泣きじゃくったりする、」

あなたに会いたかったから。穏やかに微笑むアレンは人の手ではない、それでももう醜くもない左手での涙を拭った。何もかもが変わらずには居られないこの世界では、何かを維持し続けることはとても難しい。それでも、時間という流れが何もかもを変えてゆくこの世界の中でも、信じると決めたものが一つでもあればそれは可能だと思いたい。

「それに、にはまだ僕が必要でしょ?」
「違うわ...あなたに、あたしが必要なのよ」

風が巻き上がる。多くのアクマの悲鳴が、あるいは崩れ落ちてゆく世界の悲鳴が、渦を巻いて暗い空へと消えていった。否、いなくなった、というべきか。もしかしたら消えずに空に瞬く星のどれかに突き当たって煌いているかもしれないのだ。目には見えないそれがどこまでいったかなど、人間には測りようがない。

「待ってたのよ、あなたもきっとどっかで頑張ってるんだって思ったから」

信じたかった。何もなくなったみたいな世界の中で、生きる力もそのために必要な確信も自信も無いのに、同時に、死ぬ勇気もそれに必要な分の絶望も持ち合わせていなかったわたしは、中途半端な恐怖を抱えながら進むしかなかったから。決められていない未来には希望しかないと思いながら、きっと一歩先は幸せなはずだと疑いながら、心配することなんてないと告げてくれる声を待ち望んで

「心配することなんてなにもないわ、」

自らが待ち望んでいたはずの言葉を紡ぐ。ほんの少しだけ、前よりも優しく笑えた気がした。

「たとえ100年後だろうと200年後だろうと、あなたを信じて待っている人は必ず存在するのよ」

それは、その人は、その時にはもう墓標かもしれないし地面に融けて大地を潤している灰かもしれないし手紙かもしれないし、もしかしたら何もないかも知れない。だけど何も無くたって悲しむ必要なんてない。この世界では確かに何もかもが変わらずには居られないけれど、それでも、自分の中に存在するものを誰かが変えることは不可能だということも同じく確かなのだから。躓いたら、いつか差し伸べられた手の温度を思い出して欲しい。悲しくなったら 笑って欲しい。いつかあなたの背を押して笑ってくれた人がそうしていたように。

「ラッキーだったわね、あたしがまだ 生きていて」

おまけにまだ婆さんでもないわ、そう言って笑うにはもうすでに涙の気配など無くて、アレンは安堵すると同時に、自身の視界が霞むのを感じた。疲れているのかと目をこすれば触れた熱い熱はその手を伝ってぽたりと落ちる。何事かと狼狽するアレンはしかし、ぼんやりと見えたの穏やかな笑みと伸ばされた両手でようやく事態を把握した。自分に向けられるその笑みや両腕が、先ほど自分がに与えたものに酷似していることが、何よりもこの現状を明白にしている。

「おかえりなさい」


そうして歌うように告げられたその一言に、アレンは言葉の美しさと彼女の存在の必要性を思い知る。ああ、どうか、いつまでも、なにものにも染まらないで。








メンツヒルを抜けたらそこで僕らはの鳥を見る
(etude1)








(死ぬまで何かを信じて生きれたら)

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