誰とどんな会話をしたかとか、どうやって帰ってきたかとか、そう言ったことはどれも見事に覚えていなかった。それでも、今何をすべきなのかは解っていたので、は外を吹く風に目を細めて寝返りを打ったあと、むくりとその身をベッドから起こした。裸足のままバスルームへ向かう。起きたあと、こうして歯を磨き熱いシャワーを浴びるのが、の習慣であった。二つ並ぶ歯ブラシの片方を掴んで歯磨きをしながら、目の前の鏡を見る。そうして、長方形の大きな鏡に映るその身を見て、一体何を守ってきたのか、何を守っていくのか、と思案するのが、ここ最近新しく生まれた彼女の習慣であった。羽織ったシャツを脱ぎ捨てて、バスルームへ足を踏み入れたところで、玄関の開く音がした。はそれを掻き消すように、シャワーの水を出してバスルームの扉を閉める。頭から熱いお湯を浴びながら、目を閉じる。シャワーの音は、雨の音に似ている。初めて、あの男と出会った時も、雨が降っていた。雨の中で、屈託なく笑う彼がひどく印象的で、とんでもないことをする人だなと思って思わず笑ったことをよく覚えていたのに、今はもう、よく思い出せない。思い出そうとすると、彼の泣き顔ばかりが浮かんで、どうか彼が無事であるようにと祈らずにはいられなくなる。あの声が、あの涙が、あの姿が、あの失われた命の数々が、いつもわたしの心を満たす。



シャワーの音は、雨の音に似ている。でも、雨のように綺麗に音を掻き消してはくれない。

「スモーカー。お帰りなさい」
「開けるぞ」

声と共に開いた扉の先には、いつもの白いジャケットを脱いで小脇に抱えたスモーカーがいた。その鍛え上げられた無駄のない体には、何度見ても恐れ入る。一緒にシャワーでも浴びるのかとは思ったが、スモーカーはそのままぐいとの腕を掴んで、その眼を捉えて静かに問うた。

「お前、こんな時間に出掛けるのか」
「やり残してきた仕事があるからそれを」
「夜中の2時に起きてやらなきゃならねえ大仕事なのか」
「2時」

は眼を瞬かせた。そういえば、時計を確認していなかった。目が覚めたから、無意識にいつもの通りに動いていただけだ。スモーカーは苦虫を噛み潰したような顔をして、空いた手での頭を抱き寄せる。シャワーが直にタイルに当たって、先ほどより一層激しく水が鳴る。の肌を滑る滴がいくつもスモーカーの肌の上に落ちていく。どくんどくんと心臓の音が響く。

「スモーカー」

シャワーの熱が引いていくのと同時に、心の底から込み上げてくる何かがある。はスモーカーにしがみつくように身を寄せた。滴が落ちる。シャワーの水と混ざりあってスモーカーの肌の上に落ちて流れていく。

「引きずられやがって、このバカ」

暴言を吐くスモーカーの手は、しかししっかりとを抱き留めて離さない。スモーカーには解っていた。彼女が不安に揺れていることも、未だ空虚の中にいることも、多少無理をして日常を演じていることも、スモーカーが死ななくて良かったといつも最後には思っていることも。そうは望まなくとも、長い付き合いの末に距離を近くした相手のことはよく見えた。泣きながら存在を確かめようと身を寄せるを、バスタオルで乱暴にくるんで抱き上げる。手間がかかって面倒ではあるが心配だ。スモーカーはベッドルームの家具の上に置かれた灰皿に葉巻を押しやって、そう思った。

「虚しいか」
「私たち、一体何を、守ってきたのかしら」
「組織の目標を見据えるんじゃねえだろう。ぶれずにてめえの向かう先を見据えてろ」
「組織の看板背負って生きてるのよ」
「それでも、何が正しくて何が間違いかはお前自身で決めろ」

ベッドに落とされたは再び戻ってきた暗闇の中で、再び強く窓を打つ風の音を聴く。スモーカーが言うことは正しかった。だがしかし、だからこそ恐ろしくて難しいことだった。は両手で顔を覆う。あの涙が罪な訳がない。あの憤りが、あの悲しさが、あの切なさが、間違っているだなんて思えない。正義は、伝説や本で読むようなきれいで美しいものではなかった。正義とは、悪と共生できずに人を傷つける更なる悪のことだ。ぎし、とベッドのスプリングが軋んで、はもう一度スモーカーの名前を呼んだ。スモーカーは黙ったまま、の両手を掴んでどけた。抵抗もせず静かに、しかし真っ直ぐにスモーカーを見詰めてくるの双眸は、縋るための何かを必死で探す者のそれだった。暗闇の中それを察したスモーカーは、一度の頬をその手で撫でて、縋るために伸ばされたの手を掴まえる。今は、好きなようにさせてやりたい、と思った。抱いてやることで安心するなら抱いてやりたいし、傍に居ることが彼女にとって大きな意味を持つのなら、出来るだけ傍にいさせてやりたい。例えどれだけそうしても、彼女なら腐ることはない、という信用を勝ち取る努力をしてきた女だから、許してやりたい。どうせ少し元気になれば、無理にでも自分の力で立ちたがる。そうしたら、きっと今度はこの時間を長く要した自分の未熟さを悔やみながら、それを抱えて前に進もうとするんだろう。スモーカーはの体を覆うために巻いたバスタオルに手をかけ、露わになった太ももに手を置いて覆いかぶさる。外を吹く風の音は、もう聞こえなくなっていた。




涙は、炎に焼かれるような熱で、あともう少しで燃え尽きる





20130209
(いのちには善も悪もない)