何も起きない日は、日常の仕事を終えた後はやることはそんなに多くない。とはいえいつ何時何があるかわからないので気は抜けないのだが、と一つあくびを噛み殺しながらたしぎは大きく伸びをする。壁にかけられた時計を見遣ると、もう時刻は午後4時を回っていた。がちゃりと執務室の扉が開いて、がつがつと一人の男が入ってくると、たしぎははっとしてすぐに「お疲れ様ですスモーカーさん!」と言って恭しく敬礼する。スモーカーと呼ばれた男はちらとたしぎを見遣っただけで、そのまま窓辺の執務机へとどかりと腰を下ろした。紫煙が陽射しを受けて柔らかに揺らめく。積み上げられた書類にスモーカーが手を伸ばす。しかし不意に電話が鳴り、スモーカーは面倒くさそうに書類に伸ばした手でそのまま受話器を取る。

「スモーカーだ」

たしぎは自分の執務机で作業をこなしながら、電話に応対するスモーカーを盗み見る。彼は数回相槌を打ったのちに、あ?と言うと、再度承諾の意を表して、受話器を置いた。ち、と舌打ちをしたかと思うと、おもむろに立ちあがってたしぎを見る。たしぎははっとして視線を書類へ移す。

「おいたしぎ」
「は、はい?」
「あと頼むぞ」
「えっ」
「おれは今日はこれで退勤する。何かあればすぐ連絡しろ」
「え、あ」

お疲れさまでした、とたしぎが言いかけたところで、ばん、と大きな音をたてて再び扉が開く。かつかつと軽快な音を鳴らして、「スモーカーくんこの間の騒動の件だけど」と言いながら、その侵入者はスモーカーの前で立ち止まった。桃色真珠のような豊かな髪が揺れる。

「あら?」
「なんだヒナ」
「あなたもう帰るの?」
「あァ」
「あらそう...じゃあこの件についてはまた明日」
「そうしてくれると助かる」
「お疲れ様」

ヒナの声に軽く片手を挙げて、スモーカーは執務室を後にした。夕陽の差す執務室には、たしぎとヒナ、そして僅かの紫煙が緩く宙を漂っている。

ちゃんか」
「え?」

さっきから、え、しか言っていない気がする、とたしぎは胸中で溜息をつきながら、ヒナを見遣る。ヒナはその桃色の髪を揺らして僅かに振り返り、「スモーカーくんの恋人」と付け足した。

「スモーカーさん、恋人いたんですか!?」
「知らなかった?」
「ええ...まあ...そういった話はしないので...」

それもそうか、とヒナは得心したように頷くと、懐から煙草を取り出して口許へ運びながらたしぎを見る。綺麗に上げられた睫毛に、美しく艶めく唇。美人だ、とたしぎは思った。

「奪ったのよ」
「え?」
「恋人がいたちゃんを」
「あのスモーカーさんが?」
「そう」

「元々知り合いだったみたいだけど」と煙草に火を付けながらヒナが言う時にはもうすでに、たしぎは開いた口が塞がらなかった。スモーカーに恋人がいて、しかもその恋人はスモーカーが他人から奪った人。どんな人なんだろう、と思った。想像ができない。

「美人よ」
「やっぱりそうなんですか」
「でも私ほどじゃ、ないけどね」

ふふ、と笑って、ヒナは「それじゃ行くわね」とやはりあの薔薇水晶のような髪を揺らして去っていく。残されたたしぎは、いっぺんに降り注いだ衝撃の数々に驚きが収まらないまま、ひとまず椅子に腰かけなおして少し冷めた珈琲を口に含んだ。まさか自分の上司が略奪愛の経験者だったとは。ふうと一息つくと、たしぎは二、三度首を振って机上でやりかけていた作業を再開した。執務室には、差し込む夕陽とたしぎの他には、もはや誰の残した紫煙も残ってはいなかった。






シャンピオン・ハニー
(022313)