さわさわと蜜柑の木が揺れる音を聴きながら、暖かな陽気に包まれて瞼を閉じると、船首に陣取って釣糸を垂らしながらうだうだしていた筈の船長が、突然に歓喜の声を上げた。不思議に思って瞼を開けても、ざあ、と波を割って進む船の先に陸地が見えるわけではない。何事か、とわたしが横たえたばかりの肢体を起こすと、すぐに懐かしいような、聞き慣れたような、低い声音が耳につく。それが、乗船している船の船長の、兄の声だと気が付くと、なんだか急に落ち着かない心地になってわたしはどこかに隠れたいと思った。しかし、そんなことをしたって一体何になるのだ。この浮き足だった気持ちが収まるわけでもあるまい。


「どれ...じゃあちょっとおれの相方に顔出しにいくか」

「んああ、か?あいつなら後ろの」

「ああ、いいよルフィ...おれァあいつを探すのは得意なんだ」

「なんだそうなのか」


そういって笑い合う兄弟の笑い声が高い蒼穹に広がって消える。わたしはその音を聴きながら、再び瞼を閉じる。風が吹いて、蜜柑の木が揺れる。すると微かに、芳しい柑橘類の薫りがする。甲板を歩く足音は迷うことなくこちらに向かっている。ああ、なんと贅沢で平和な瞬間であろうか。


「よう」

「どーも」


彼はわたしを視界に捉えると、何とも緩やかな様子で片手を挙げてひとつ笑った。わたしはというと、そんな彼に対して高鳴る心臓を抑えるのが精一杯で、ろくな笑顔も浮かべられない。それでもただ、一言だけ、定型の返事をする。わたし達の再会はいつもこうだった。愛想も何もないような、とても短くて呆気ない挨拶を交わすだけ。それは、内容も感情の添え具合も常に区々のものだったが、相反して、何ヵ月かに一度顔を見せる彼がそんな挨拶のあとに決まって告げる、いつだって変わらない言葉があった。


「相変わらず綺麗だな、

「はは...ありがとう」

「できれば...毎日見てたいが」


今の俺の生活にお前は付き合わせられない。これが、彼が決まって言うもう一つの言葉であった。特にわたしが付いていきたいと言った覚えはなかったが、それでもそんな思いが少しもないわけではなかった。愛しいと思えば離れがたくもなるし、会えない時間が心に影を落とすこともある。所詮わたしも、恋をしているただの女でしかないということを、彼に会う度わたしは何度も思い知る。


「元気にしてるか?」

「うん、お陰さまでね。エースは?」

「見ての通りだ」

「そっか」


わたしはそう言って笑って、ゆっくりとエースの顔を見る。音もなく視線が交わる。太陽色の帽子の下から覗く、彼の双眸が、酷く熱心にわたしを見詰めていた。瞬間、わたしは胸が潰れるような思いがする。向けられるエースの視線の切なさで、何の疑いもなく、彼の中にもわたしと同じような願いが潜んでいることを、悟ってしまった。きっと二人とも、同じ気持ちを抱えているというのに、それなのに、行かないでとか、連れていってとか、傍にいてとか、抱きしめてとかキスしてとか、そういう当然の願いが、当たり前のように口にできない悔しさが、わたしの瞳を潤ませる。このまま涙を流したら、彼はわたしを連れていってくれるだろうか。わたしは一つ慎重に瞬きをして、視線を目の前の男に戻す。いいや。わたしの知る彼は、弱いわたしを励まして、そっと背中を押してくれる、とても強い男だ。きっとそんなことは、しないだろう。


「...泣きそうな顔すんなよ...俺だって、寂しいんだぜ?」

「でも、エース」


思わず口をついて出た反論の一言に、わたしははっとして口を噤む。でも、何だというのだ。彼がわたしと同じように、或いはそれ以上に、焦れているのはよく分かっているはずではないか。エースは、黙って視線を落としたわたしの傍に屈み込んで、片手でゆっくりとわたしの顎を持ち上げる。さわさわと、蜜柑の木が揺れる音がする。久しぶりに触れる彼の指先は、相変わらずほんの少し熱かった。


「ごめん...」

「おまえが謝るなよ、」

「でも」

、どこにいても...おれはおまえが好きだ」


わたしの名前を呼んで、エースはひどく大らかに笑う。この船の船長と、似ているような、それでいて少し違う、憎めない笑顔に、わたしは彼が望むようには強くなりきれないまま、両腕を伸ばして彼の首元に絡める。肩に顔を埋めると、一層強く胸が焦がれた。彼に触れる肌も、潤んだ双眸も、焦がれる胸も、何もかもが酷く熱くて、わたしはこのまま彼に燃やされて灰になるのではないかと思った。それでもいい。彼が愛しい。わたしがぎゅうと身を寄せると、エースは片手でわたしの背中を引き寄せながら、そっともう片方の手でわたしの頭を優しく撫でた。そうしてその低い声音で、彼はもう一度わたしの名前を呼ぶ。


「いいな、忘れるなよ」
















031010
(泣きたいわけじゃないの、そばにいたいだけなの)