暑いわねと、ぎゃあぎゃあと沸く歓声の合間を縫って言う蜜柑色の髪の航海士はコック特製のトロピカルジュースを喉に流しながら船首のわずか先を見つめた。その声が告げるように、その日はからりと晴れ渡った、陽射しの強い日であった。わたしは薄着に着替えて部屋から出ると同時に、その言葉に頷いて、溜息をつく。焦がすような暑さとは、このことだ。すぐ目の前ではしゃぎ回っている男たちの、一体どこに、そんな気力があるというのか、わたしには到底理解できなかった。上から陽射しが容赦なく叩きつけていることに、果たしてこの男たちは気付いているのであろうか。わからないな、と自答して再びわたしは溜息を落とした。彼らの頭の中にはもはや目と鼻の先にある次の上陸地のことしかないのだろう。もちろん、わたしだって、久しぶりの大陸が楽しみなことに変わりはないが、しかしそれでも茹だるような暑さで鬱々とする気持ちが少なからずある。せっかくの陸地なのに、と文句のように呟くと、でも、と隣に立つ航海士が無垢な笑みを浮かべて笑う。この人は、ときどき本当に隙がないなと思うほどただでは起き上がらないちゃっかりした人だけれども、それでもこの船の上で見せる笑顔はとても可愛らしい。


「すぐに雨が来るわね」

「雨?こんな暑いのも嫌だけど雨も嫌だわ」

「だいじょうぶ、スコールみたいなもんよ、激しい雨が一時的に通過」

「それなら、まあ、いいか」

「降られないように気をつけましょ」


そうね、と笑って、わたしたちはじきに上陸準備を済ませて踏み込んだことのない未知の大陸へと足を踏み出していく。買い出しに見物に物色にと各々がうずうずする心地で散っていく中、もちろん身辺の必需品から嗜好品までの買い物三昧を決め込もうと企んでいたわたしは、しかしふとその計画を進行中に視界の隅を横切った見覚えのあるシルエットに立ち止まった。とはいえ、ひどく混雑していた街の中心部で、立ち止まったって、流れる人混みに掻き消されて気になるものが見えるはずなどない。そればかりか、人のうねりに巻き込まれてすぐに仲間の姿も見えなくなった。この状態では、完全にはぐれてしまわぬうちに仲間と合流したほうがいいことは、恐らく小さな子供でも分ったであろう。もちろん、わたしにだって、分からなかったわけではない。ただ、ここにいない人間を恋しく思う、突き刺すような胸の痛みが捨てきれなかった。この痛みに溺れ飽きたら、船に帰ろう。わたしはそう心に決めて、喧騒から逃れるように、賑やかで彩色溢れた通りを抜けた。どこかで綺麗な鐘の音がするのを聴きながら、石造りの家々の隙間を這う静かな小路を目的もなく歩く。どの家にもあるバルコニーには小さな葉を風に揺らす植物が添えられて、立ち並ぶ民家のところどころに、秘密基地のような小さな店がある。それはとても愛らしいけれども、それと同時にとても長い歴史を感じさせる町並みであった。しばらく歩くと、急に道が開けて、わたしはぽっと放り込まれたかのように人の溢れる広場に突き当たる。広場の向こうに、荘厳な建造物が見えたのと、空が割れるような音とともに豪雨が降りだしたのは、ほぼ同じ瞬間の出来事であった。わたしは突然の羨望に再び立ち止まった。どうしても、視界に飛び込んでくるのは、手に手を取って、ともに家を目指す恋人たちの姿。思い返せば、若い恋人たちの姿と同じくらい、この街には初老の恋人たちの姿も多かった。隣に並びあってカフェのテラスに座って、人目も気にせず愛してると言ってキスをする。しあわせが零れ落ちそうな笑顔を浮かべて身を寄せ合う。小さな愛情が溢れる良い街だと思うのに、そう思うわたしは人混みの中で溢れる涙を止められなかった。次から次へとこぼれる涙を、一つ残さず大降りの雨が掻き消していく。胸の痛みは、まだ消えない。それに溺れたいわたしもまだ飽きない。恋焦がれた胸の痛みなんかじゃ片付けられない欲望が容赦なくわたしの心を食い荒らす。姿は見えたのだ。この街のどこかに、きっといるはずなのに、見つけ出せない。雨の中で途方に暮れていると、不意に先程聴いた綺麗な鐘の音が、土砂降りの雨音に重なって鳴り響いた。それはまるで星がこぼれ落ちてきたかのような、とても綺麗な音だった。わたしは、広場の向こうの大きな建物の天辺から響いてくるその音に惹かれて、視線を向ける。手を取り合って空の下から逃げた人々はみな上手く退散したのか、もはやその姿はどこにも見当たらなかった。人気がない広場はまるで無人の廃墟のようだと思ったが、しかし、この豪雨の中だというのに、広場のど真ん中で立ち止まって馬鹿みたいに鐘を見上げる、ずぶ濡れの男がひとりいる。それは先程見かけた見覚えのある人間の後姿だった。


「エース!」


涙のせいで声が詰まるのを無理矢理叫んで、わたしは再び嗚咽を漏らした。わたしは馬鹿だと思ったが、どうやらそれはわたし一人だけではなかったようだ。名前を呼ばれて振り返った彼は、雨の中走ってわたしの傍にやってくる。あれだけ会いたいと思ったのに、いざ姿を見つけると体が動くよりも先に感情が溢れてどうにもならない。情けないと思ったが、いま目の前に彼がいることを考えればそんなことはどうでもよかった。


「エース」

、おまえ、この街に来てたのか」

「さっき」


来たのよ。わたしはそう言って彼の顔を見上げた。雨が容赦なくわたしの頬を打って涙に混じって落ちていく。エースはわたしの頬を一度撫でて、ゆっくりと頷くと、被っていた帽子をわたしに目深に被せて抱き上げる。わたしが彼の首にしがみついて顔をうずめれば、どこかに向かいながら彼は大きく笑って、落としも離しもしねえよと言って抱く腕に力を込めた。雨が降っても気温が下がらないせいでひどく蒸し暑いのに、それでも腿に触れる彼の手のひらの熱さがよく分かる。しばらくすると、彼は一軒の建物に滑り込むように入ってドアを閉めた。そうしてそうっと彼の腕がわたしを下ろしたので、ようやくわたしは辺りを見回す。それは何の変哲もない、どこにでもあるような酒場であった。ただ、まだ営業時間ではないのか店内にはだれもいない。一体ここはどこなのか、わたしが問おうとエースを見遣れば、彼はぐいとカウンターに座るわたしの腰を引き寄せて無造作に唇を塞いだ。ふたつの息が漏れる音に重なって響く時計の秒針が、ひどくその部屋の静寂を際立たせてそうして、なかなかわたしを現実から引き離してくれない。ドアを一枚隔てた向こうでは相変わらず大きな雨音がしている。エースは濡れた髪を鬱陶しそうに掻き上げると、わたしの頬を両手で挟み込んで、小さく笑った。会いたかった。彼の低い声音がそう告げて、わたしの心臓を容赦なく疾走させる。ぽたりと彼の漆黒の髪の一筋から雫が落ちるのを眺めながら、わたしはひとつ瞬きをする。睫毛の合間から、熱い雫がこぼれ落ちる。腰に添えられたエースの手に再び力が込められて、わたしはそっと彼の腕に自身の手を添える。そうして彼の呼吸にだけ耳を澄ませた。肌が触れ合うたびに生まれる、燃えるような熱さがわたしの心を掻き立てる。蒸し暑さにひとつ呻くと、エースがわたしの首筋に顔をうずめたまま息をつくように笑う。もはや壮大な雨の音も、何より正しい秒針の音も、何一つ聞こえない。張り付く邪魔な髪を掻きあげると、エースが欲情に満ちた双眸でわたしを捉えて、そうしてわたしたちはぎらつく本能のままにお互いを求めあった。それはこの街で見かけたような、小さな可愛らしい愛情などとは似ても似つかない、劇薬のような愛情だった。混じりあう息に唆されて身を寄せれば、すぐに彼がわたしの心を満たしてくれた。聴こえてくるのはひどく扇情的な、彼のあがった呼吸たったひとつで、わたしはもはやこのまま気が狂ってしまうのではないかと思った。しかしそれでも、わたしとエースは、雨が止むまで、幾度もそうして求めあって、決して抱き合うことを止めなかった。


「へへ...行儀悪ィことしちまったな」


床の上に寝そべったまま、不敵に笑ってエースが呟いたのは、雨音が優しい音色に変わる頃だった。わたしは満たされる感覚に浸されて、彼の言葉にさえ碌に返事ができない。ただ、乱れた息を整えながら、何度か軽く頷くと、彼はわたしの下でそれを黙って見つめていた。そうっと手が伸びてきてわたしの頬に触れる。温かい手のひらがわたしの頬を包み込んで、わたしは小さく溜息をついた。


「きれいだ」

「え」

「え、ってなんだよそりゃ」

「だって」


わたしの反応に大袈裟に笑うエースの声が、誰もいない酒場に響き渡る。わたしを支えながら上半身を起こすと、彼はわたしの頭をわしゃわしゃと無造作に撫でて、本当だと言った。そうしてわたしを立ち上がらせて、カウンターに置き去りにされた帽子を掴む。わたしは濡れたまま乾く気配すらない着衣を整えながら、彼の動きを目で追った。そうして雨音に耳を澄ませながら、小さく笑う。


「あなたもきれいよ、エース」

「おいおい...やめてくれ、俺はただのむさ苦しい海賊だ」


一度大きく笑って、エースは帽子を被る。ドアを開けて、それを片腕で押さえる。わたしが彼に続いて外に出ると、彼はそろそろ行かなければならないと言って、そっとわたしの頬を撫でた。送っていけないがみなさんによろしく、というエースの言葉に一度頷いて、伝えておくわとわたしが返すと、彼はまた無邪気に笑って、今日は攫って悪かったと言った。じゃあ、とどちらからともなく別れの挨拶をする。ついにエースは街並みの向こうへと去っていく。軽やかな彼の後姿を見届けて、わたしはまっさらな空の下へと躍り出た。豪雨から避難していた人々が戻り始めた街中には、美しい鐘の音が、雨の終わりを告げるかのように幾度も幾度も響き渡っていた。









ステラ フィランテ







032210
(きみをいとしいとおもうわたしがすき)