まるで犬や猫が押し込まれるようなケージでの生活にも、もう慣れ始めたころだった。「男ってえモンは女と違って馬鹿で単純なのさ」、と目の前で背中を見せたまま、振り向きもしないで二番隊長の男が言った。わたしはその言葉に傷だらけの体を揺らして笑って、そうして泣いた。手錠をはめられて、暴れたせいで仕置きを受けて傷だらけになった、人攫い屋の新商品、のなり損ない。或いは白ひげ海賊団一番隊員。或いは目の前の二番隊隊長、エースの事実上の恋人。それが今のわたしに当てはまる肩書きのすべてだったが、どの肩書きにも、もはや未練などない。彼が現れたのは、そう心に決めた次の日のことであった。


「しかしまたひどくやられたもんだな、せっかくの美人が台無しだ」

「何本かいってるわね」


ゆるゆるとわたしが疲れたように呟くと、エースは手錠と首輪をはずして易々とわたしを抱え上げる。骨が軋んだ。一瞬ではあったが、激痛が体中を駆け巡ってわたしは獣のように悲鳴を上げる。エースは苦虫を噛み潰したかのように僅かに顔をゆがめてわたしの腕を幾度かさすった。しかし帰るべき場所へと駆けることをやめない。わたしは激痛を呑み込んで、冷や汗の滲む両腕で彼を押しやった。突然の拒絶に、彼はわたしを受け止められない。勢いよく地面に落ちた瞬間、わたしは再び獣の咆哮を生む。


「バカ野郎!おまえ何してやがる!」

「なぜ来たの」


白ひげ海賊団、という大きな、何より大きな「庇護」のもとで、たかが人攫い屋のハンターに捕まったことは、間違いなく自分自身の失態でしかない。自分が弱かったから、自分が油断していたから、自分が馬鹿だったから。自分自身を嬲る理由なんて数え切れないほどある。しかし、そんなことなど、どうでもいいのだ。わたしの失態は、ほんの小さなことだったかもしれない。それでも、ほんの僅かであったとしても、人攫い屋に捕まって敬愛する船団の名前を貶めたことが、わたしには苦痛で苦痛でならなかった。


「どうして、来たのよ」

「...そんな質問に答える気はねェ。帰るぞ」

「帰れないわよ...こんなバカみたいな失態さらして」


わたしが飽くまで拒絶の姿勢を示すと、エースはわたしの目の前に立ちはだかって、小さな声でごめんなと呟いた。途端に溢れだした激痛の渦に、抗う間もなく呑み込まれたわたしの意識はいとも容易く飛んで崩れ落ちた体は難なく彼の腕に抱きとめられる。二番隊長を前にしてこうなることは、承知の上だった。それでも、どうしても抗うことを諦めきれなかった。目を覚ませばそこはすでに見覚えのある一室で、わたしは瞬きをするよりも早く頬を涙が伝うのをその熱さで知る。自分を嘲るための笑みが口許を支配していて嗚咽の一つも漏れやしない。わたしはまだまだ子供なんだと、もう何度思ったことか。それなのに未だに自分の感情を綺麗な宝石のようにコーティングして、大事に大事に抱え込む、そんな世間知らずのお嬢様のような行為を繰り返しては、そのたびにひどい自己嫌悪を味わう。ときどき、どうしようもなく不安になる。わたしのこの船団に対する愛情は、ほんとうに存在しているのか。わたしが美しく仕立て上げたものではないのか。ぐ、と歯を食いしばると、急な痛みに押し出された呻き声が唇の端から漏れた。わたしなんかが、こんなにすばらしい船団を、好きだと思うことは果たして、許されることなのだろうか。


「帰ってきたかバカ娘」


聴きなじんだ低い声がした。はっと涙で滲んだ視線を上げると、大きな巨体を据えて笑うこの船の船長が見える。彼の炯々とした双眸がわたしを捕まえたかと思うと、彼は呆れとも怒りともつかない溜息を一つ落とした。こんな巨体が部屋に入ってきたら、いくらバカなわたしだって気付かないはずはない。恐らくはずっとそこに座っていたのだろう。返す言葉もなくてわたしが静かに瞬きをして沈黙を守っていると、親父、とドアを開けて一人の男が顔を出した。


「ここに...って、、起きたのか!」

「エース」

「傷は?」

「いたい」

「そりゃあ...そうだろうが...だからって泣くな、親父にぶたれるぞ」

「バカ野郎、エース、おれァ息子はぶっても娘はぶたねえ」


グララと笑って船長はぐっと手に持った酒瓶を呷る。アルコールの匂いがふと鼻先を掠めて消える。この船団に来てからずっと長いこと嗅いでいたその匂いに、急にわたしは胸が苦しくなった。愛しい人の傍にいられることは、いつも幸せなこととは限らない。傍にいればいるほど、気付けないことは多くなる。


「親父、わたし」

「ああ?」

「こんな失態さらして...少しも恩を返せない自分が許せないの、それに」


この船団には、相応しくない気がする。一呼吸で言いきって、わたしは無意識のうちに唇を噛んだ。それはいつも思っていたことだった。それでも、思いを口に出した、その途端に涙がこぼれそうになる。いつも泣き虫だと笑われてきたけれど、そんなわたしでも、今が泣いてはいけない時だということは分かっていた。涙をこらえて、じっと船長の声を待つ。しかし、いつまで待っても船長は口を開かなかった。それでも、もはや心臓ばかりが逸って、また傷が痛みだすような気にすらなる長い沈黙を、じっと耐えに耐えると、ついに彼は口を開いた。かと思えば、そうして大口を開けてグララと笑う。


「親に向かって生意気言うんじゃねえ、バカ娘が」

「親父!わたしは本気で」

「てめえの親に相応しくねえ娘がどこにいる」


それは一瞬の出来事だった。泣いてはいけない、その一瞬が、涙とともに終わりを告げる。こらえていた分の涙がどっと溢れて、わたしは大声をあげて子供のように泣きじゃくった。ずきずきと傷が痛んでいたけれども、それよりも胸が痛くてどうにもならない。敵わないと思った。相応しいとか、相応しくないとか、失態だとか名を貶めるとか、そういうことは、この船の上では何の基準にもならない。そのことを身をもって体感した、わたしのこころはしかしとても脆くて、せっかく与えられた喜びをどうしてもこぼさなくてはいけなかった。それが悔しくてまた涙がこぼれる。わたしの泣き声を聞き付けて、船内にいた仲間たちが医務室のドアから飛び込んできたけれども、すぐに状況が予想していたような緊迫したものではないことを悟って胸を撫で下ろしたようだった。涙でぐしゃぐしゃになったわたしの顔を見かねて、近寄ってきたエースが大雑把にわたしの頬を両手で拭う。そうして宥めるようにわたしの名前を呼んだので、わたしは彼のシャツの裾を握りしめたまま、何とか涙の合間に言葉を紡いだ。


「エース」

「ん?」

「連れ戻してくれて ありがとう」

「いいさ...気にすんな」

「親父」

「あん?」


わたしは掴んでいたエースのシャツの裾から手を離す。軋んで悲鳴を上げる体を無理やり起こして、酒瓶を口許から離して返事をする船長を見た。ぼたぼたと頬を伝う暇もなく落ちる大粒の涙で、目の前にいるはずの船長の顔すら滲んでまともに見えやしない。怪我人であるわたしが起き上がったことにエースが何か言いかけたけれども、わたしはそれを遮って、邪魔な点滴のチューブを引き抜いた。そうしてベッドの上で、船長に頭を下げる。ごめんなさいだとか、迷惑をかけましただとか、色々と言うことはあった。ただ、それでもわたしはなんとなく、きっと自分はありがとうございましたと言ってまた大泣きするのだろうと、そう思ったのだけれど、意外なことに口を衝いて出た言葉は謝罪のそれでも感謝のそれでもなかった。船長はまた暢気にグララと笑って、わたしの頭をぐしゃぐしゃに撫でる。結局、わたしはその手のひらの温かさにまた大泣きして、その後しばらく船員たちの笑いを買うことになった。どっと沸きあがる、歓声のような笑い声が、わたしの涙を彩っていく。


「親父、こんな娘ですが これからもよろしくお願いします」

「グララララ...しっかりついてこい、ハナッタレ」








オルマレイ









032310
(悔しいぐらい 愛情ってものは目に見えない)