わたしは昔から怖気づくことだけは一人前な女の子だった。人気のない廊下やドアの隙間のような暗がりを見れば、そこから何かがこちらを見ているような気がしたし、就寝時に何か物音がすれば、泥棒か殺人鬼がやってきてわたしは殺されるんじゃないかと不安になったりもした。そんなだから、もちろん怖い話を聞いて眠れなくなったこともある。ただ、それらの恐怖は理由が分かっているから自分を宥めて落ち着かせるのはそんなに難しいことではないし、大人になるにつれていずれ克服できる日も来るだろうと思っていた。ぜひそうであって欲しいと未だに思うが、大人だと思っていた二十代になって何年かたつ今も克服できていないことを考えると、恐らくあまり期待はできないだろう。それに、仮にそれらを克服できたところで、肝心な部分は何一つ変わりやしない。なぜなら、わたしが最も恐れるものはそういった暗がりや物音や怖い話なんかではなくて、生きとし生けるものすべてに例外なく流れている血液だったからだ。なぜ恐ろしいのかは分からない。でも、わたしは自分自身の体の中にそんな恐ろしいものが流れている、と考えるたびにそれはとてもおぞましいことだと思った。わたしには死の外科医とあだなされる恋人がいるが、どうしても堪らなくなって何度か彼にわたしの全身から血液を抜いてくれと頼み込んだこともある。もちろん、そんなことをしたら生き物は死ぬわけで、わたしがそう頼み込むたびに彼はバカだと笑ってその要望を一蹴した。そして彼が言うとおり、わたしはとんでもないバカ者だった。こんなにも血液を恐れる人間がよりにもよって外科医なんかと付き合っているばかりではなく、さらには血生臭い海賊なんぞになっていることはそれを証明する何よりの証拠だろう。世の中の女性はもしかしたら、愛という魔法の言葉一つでこの事実に納得してしまうかもしれない。しかし、いくら惚れた相手とはいえ、一生に一度しか恋ができないわけではないのだ。それを黙って素通りさせさえすれば、いずれまた別のチャンスが舞い込んできただろうことを考えれば、外科医で、海賊の彼をあえて選んだわたしの行動はやはり狂気の沙汰のようにしか思えなかった。そうだ。思えば、最初からすべてが狂気の沙汰だったのだ。突如土砂降りのように降りそそいだ赤い雨のなかで、わたしの精神が軋む音がした。堪らずに声を上げる。それは恐怖が生む、悪夢のような咆哮だった。

「ベポ!」

「アイアイ!」

わたしは息ができない苦しさと焦燥と不安で倒れそうになる体を必死に奮い立たせる。しかし、吐きそうな感覚とはまた違う、胸を圧迫するその感覚には、わたしはまったく歯が立たないでいた。さっきから、息を吸うばかりで吐きだせない。頭の芯が急に冷えて、意識がかすんだ。このまま死ぬんじゃないかと思ったが、わたしには自身の最大の恐怖に加えて新たな恐怖とも向き合わざるを得なくなった自分自身に、落ち着いて息を吐き出すように言い聞かせ続けることしかできなかった。大丈夫。目を閉じて、そう言う船長の声を何度も何度も思い出す。すると不意に、ぬるぬるとした感触を拭うように、誰かの手がわたしの両頬を挟み込んで、わたしの名前を呼んだ。しかしあまりに突然の他者からの接触に、残された欠片ばかりの平常心さえ消え去って、再びわたしは悪魔のような悲鳴を上げる。それが、こんな状況になろうともついていくと決めた、ハートの海賊団船長、死の外科医トラファルガー・ローの声であったことに、気付く余裕などもはやどこにも残ってはいなかった。

!」

悲鳴を上げては触れてくる腕を振り払うが、強い力で押さえられてわたしはすぐに身動きが取れなくなった。、と幾度目かの呼びかけで、わたしはようやくそれが誰であるかを理解した。しかし、ロー、と必死で名前を呼んでも、酸素が喉に詰まって出てこないせいで音にはならない。苦しくて、ぼろぼろと両目からは大粒の涙が流れた。頭の芯も指先も、凍えるように冷たい。相変わらず吐きだす暇もなく体が勝手に酸素を取り込むせいで、いよいよわたしの意識が遠のいた時、わたしの酸素を求める行為はわたしを抱きとめる外科医によって遮られた。彼は何度も一定の間隔でわたしの唇を塞いでは、解放する。ようやくわたしの意識が鮮明に戻ってきたころ、彼はわたしの名前を呼んで再び頬をその両手で挟み込んだ。

「おれの呼吸に合わせろ」

「は...っ..ロー、」

「しィ」

親指でなぞる様にわたしの唇に触れて、ローは黙ってわたしを見下ろした。それはいつも彼がわたしを黙らせる際に用いる方法であったので、わたしはローの言葉を信じて大人しく目を閉じる。耳を澄ませると、遠くから、まるで祭り騒ぎのような音がした。きっとベポ達がまだ戦っているんだろう。聞こえてくるベポの掛け声に少し安心して、今度は近くの音に耳を澄ませる。静かで規則正しい呼吸の音が、わたしの荒く乱れた呼吸の合間に辛うじて聞こえている。掻き消されそうなその音をもっとしっかり聞きたくて、わたしはローの言うとおりに彼の呼吸を追いかけた。わたしが必死に呼吸を合わせようとする合間、ローは静かに呼吸を繰り返しながらわたしの顔についた誰のか分からない血液を丁寧に拭っている。少しばかりだが血液の強烈な臭いが薄れて、わたしはようやく普段の呼吸の仕方を思い出した。そうしてすぐに、正確な呼吸の合間に彼を呼ぶ。今度ははっきりと音になると思ったが、しかし相変わらずその声音は掠れて震えた、死にかけの小鳥のさえずりのような音をしていた。体の震えが止まらないのだ。それに、呼吸が戻っても、どうしても閉じた目を開けられない。例えローが傍にいても、今のわたしには再び地獄のような光景を視界に入れて平常心を保っていられる自信がなかった。ローはしばらくの間何も言わずにわたしの体を抱きしめていたけれども、不意に血だらけのはずのわたしの髪を撫でると、軽々とわたしを抱え上げてどこかへと歩き出す。服が汚れてしまうよと言うと、彼は笑って「知るか」とわたしの精一杯の気遣いを一蹴してみせた。

「帰るぞ」

「え」

「目ェ開けられねェなら聞いてみろ、もうとっくにカタはついてる」

彼の言葉に従ってもう一度耳を澄ますと、確かにもうあの祭りのような喧騒は少しも聞こえてこなかった。代わりに、ベポや他の船員達がこぞってやんややんやとこちらに叫んでくる声がする。みんな何だか楽しそうで、わたしは、わたしを抱き抱える船長に対してより一層申し訳なく思った。きっと彼も、他の船員達とこの祭りを楽しみたかったはずだ。それなのに、わたしは。

「ごめん」

楽しみを奪ってしまったことを謝罪しなければならない、と思った。そもそもの話、こんな血液恐怖症の人間が海賊なんてやっていたって仕様がない。恐らく戦いでは足を引っ張るばかりだし、かといって他に飛び抜けた取り柄があるわけでもない。放っておいたらすぐに死ぬはずのわたしが未だにこうして生きていられるのは、ひとえにこの船長と、船員達のおかげなのだ。それでも、そのせいで多大なる迷惑をかけていると分かっていても、これは自分で決めたことなのだと思えば安易に下船を決断して責任を放棄するようなこともできなかった。そんな無責任な女にも中途半端な女にもなりたくなかったし、それに何より、トラファルガー・ローという男を選んだことだけは、決して後悔したくなかった。わたしは船を降りるわけにもいかないし、死ぬわけにもいかないし、船長から楽しみを奪い続けるわけにもいかないし、船員たちに迷惑をかけ続けるわけにもいかない。つまり、死に物狂いになってこの恐怖を克服するしか、彼の船団でわたしが生きる方法はない。もちろん、それがとてもつらく苦しい道になることなど、火を見るより明らかだった。それでも、わたしは懐かしき日にそうしたように何の迷いもなく、信じた男の傍で再び未来を掴むのだ。なぜなのかはわからないが、もしもこれが愛の力だというのならそれもいい。

「ロー」

「なんだ」

「ごめん」

「なにが」

「ローの服で顔拭いていいかな」

「フフ...勝手にしろ」








It'll be a cold day in hell when I give up this love, yeah, tell me about it.









032810
(what fortune, this is all I grab for my life)