朝も昼も夜も、暇さえあればわたしはオヤジの傍にいた。朝は食後のコーヒーを飲みながらオヤジの膝の上で一緒に新聞を読んで、昼は太陽が真上を通過する頃に横になるオヤジの腹筋の上で昼寝をし、夜はオヤジの晩酌に付き合って昔話を聞きながら、腕に寄りかかっていつの間にか眠ってしまう。わたしはずっと、死ぬほどオヤジのことがすきだった。まだ少女だったころに拾われてから、ずっと、わたしの夢はオヤジのお嫁さんになることだったのだ。しかしその夢を口にすると決まってオヤジは馬鹿みたいに大笑いするので、本気だったわたしはそうされるたびに拗ねてその後2、3日は絶対にオヤジに近づかなかった。その間はオヤジと目も合わせないし、口も利かないし、おんなじ場所にも絶対にいない。しかしそうすると、必ず3日目の夜に隊長のマルコがやってきて、そんなわたしをものすごい剣幕で叱り飛ばした。マルコはわたしよりずっと年上なのに、少女だったわたしに怒るときだって全然容赦してくれないので、あまりの怖さに泣き出すわたしは結局いつもオヤジのところに逃げて行って誰が何と言おうとも絶対にオヤジからしがみついて離れなかった。オヤジはマルコに叱られて号泣するわたしを慰めるどころかいつも大笑いして、またマルコにやられたのか、情けねえやつだ、たまには勝って女の意地を見せやがれと言って、いつもわたしが落ち着くまで、世界中で活躍する女海賊たちの話をしてくれた。オヤジに恋をしていたわたしはとても単純だったので、オヤジはきっとそういう強い女がすきなのだと思ったら鍛錬にも俄然力が入って、知らない間に賞金を掛けられるようになっていた。それでも、何度試してもマルコとはまったく勝負にならなくて、そのたびにやはりわたしはオヤジの逞しい腕にしがみついてこっそり泣いた。どうしてだかそういう時は、オヤジも決してわたしを笑ったりはしなかった。ただ、そうやってマルコに挑んでいって負けると、決まってオヤジはすこし寂しそうな顔をして、

「バカ野郎、女が男に勝ってどうする」

と言ってわたしを叱った。だって、勝って女の意地を見せろって言ったのはオヤジだよと、わたしが泣きそうになって言ったところで、いつも返ってくるのはオヤジの溜息ひとつだ。わたしはその頃には、拾われた時より幾分か大人になっていたけれども、オヤジが一体何を言っているのか、てんで分からないでいた。それからしばらくして船に火拳のエースがやってくると、今度はわたしは毎日エースと本気でやり合って怪我をするようになった。彼がオヤジに触れることすらできないと分かっていても、オヤジを傷付けようとするエースを、わたしはどうしても黙って見過ごすことができなかったのだ。しかし、毎日毎日、決まってそれを見つけるマルコがわたしを無理やり引き下がらせて、おまけに医務室で怪我の治療まで受けさせた。相変わらず、マルコはとても怖くて、わたしは一度彼に捕まると黙って言うことを聞くしかなかった。しかしマルコが任務で船を離れたある日、ついにわたしはいつもよりだいぶ大きな傷を受けて医務室に担ぎ込まれることになる。数時間眠って目を覚ますと、ベッドの脇には当然のようにあの恐ろしい隊長のマルコが座っていて、わたしはいっそ具合が悪いと言って意識を失うふりをしようと思った。けれども生憎と、マルコはそんな嘘が通用するような生易しい相手ではなかった。

「いい加減にしたらどうだ」

と、そう言ったマルコの声ほど、冷たい音は未だかつて聞いたことがない。わたしはその時、その一言を聞いた瞬間に、絶望というものを味わった。そして同時に、怖くて怖くて仕方がないのに、なぜだかわたしは痛む傷を抱えてでもベッドの上に起き上がって、マルコがそこに留まってくれることだけを必死に願っていた。いつも容赦なくわたしを叱り飛ばすマルコのことは好きではなかった。それなのに、彼に見捨てられたらどうすればいいのかまったく分からなくなっただけで、わたしは言いようのない不安に駆られた。わたしが幾らオヤジを傷付けようとするエースが悪いのだと言っても、マルコはまったく取り合おうとしてくれない。段々腹が立ってきて、どうしてわかってくれないのと声を荒げると、完全に怒りを露わにしたマルコがわたしの数倍の声量でわたしを怒鳴りつけた。

、いいか。今のあいつ程度じゃオヤジに手出しなんてできやしないが、だからって弱ェわけじゃねェんだ。おまえがそこに無駄に首突っ込んで死んじまったらどうするんだよい!」

「でも、だって、マルコ...」

わたしはいつもより数倍すごい剣幕で怒鳴ったマルコにぼろぼろと涙をこぼした。しかし、いつものようにオヤジのもとに逃げていくこともできたのに、この時のわたしは決してマルコの前から動かなかった。今のマルコから逃げたら、きっとわたしはこの先一生この人を失ってしまうのだと思った。そしてそれは、何より恐ろしいことのように思われた。マルコの容赦のない視線に耐えながら、そこでようやくわたしは、今まで自分が一体誰に甘えてきたのかを知った。わたしが大粒の涙を止められずにいると、目の前で腕を組んでどっかと座っていたマルコが急にわたしのほうに手を伸ばして止まらない涙を拭ってくれた。泣くんじゃねェよい、といって軽く溜息をついたマルコは、きっともうどこへもいかないだろう。わたしはそのことがとてつもなく嬉しくて、はじめてオヤジ以外の人間に抱きついて声をあげて泣いた。わたしを抱きとめるマルコの腕は思っていたより温かくて、そうしてずっと逞しかった。わたしを黙って受け止めるマルコの傍ではじめて泣いたこの日、わたしがマルコに戦いを挑んで負けるたび、なぜオヤジが寂しそうな顔をしたのかをわたしははっきりと理解した。マルコはわたしを必死に守ってくれる人で、大切にしなくてはならない人なのだ。その日からわたしは、マルコに首根っこを掴まれて叱り飛ばされて泣くことはあっても、決してオヤジのもとに逃げていくことはしなかった。代わりに、マルコの説教に泣きながら返事をして、彼が、分かったならいいよい、もう泣くな、と言ってわたしの頭をわしゃわしゃと撫でてくれるのを待つのだけれども、オヤジはそれを見ると、決まってお前もそろそろ親離れかというので、わたしは悲しくなって結局最後にはオヤジに抱きつきに行った。しかし、その頃のわたしはもう昔のように、オヤジのお嫁さんになりたいと言ってオヤジを大笑いさせることはなかった。それに、マルコを本当の意味で怖いと思うこともなくなっていた。

それから幾年か過ぎて、お互いに成長したわたしとエースがついに仲直りをして、わたしのからだが大人の女のものへと成熟しても、相変わらずわたしは暇な時間をオヤジの傍で過ごし、何か悪さをすればマルコにこっ酷く叱られた。とはいえ、もちろん成長もした。その頃になってわたしの懸賞金はぐっと上がっていたし、頭も悪くなかったし、お酒にもだいぶ強くなっていた。そんなある晩、わたしがいつものようにオヤジの傍で晩酌をして、先に眠りに就くオヤジを見送って船内を歩いていると、ちょうど何人かの隊長たちが飲んでいる場に出くわした。そこにマルコはいなかったが、みんな親しい間柄だったのでわたしは喜んで彼らの誘いを受けることにした。飲みながら他愛もない話をしていると、ふいに隊長のひとりがわたしを見て、しかしこれじゃあマルコも生殺しだなと呟いた。わたしは何の事だかさっぱり分からなかったが、他の隊長たちは何を言っているのか完全に理解しているようだった。何の話?とわたしが首を傾げれば、隣に座っていた隊長のサッチが酒瓶を持ったまましばらく何かを考えている素振りを見せたあと、ようやくわたしに向き合って、

はマルコが好きか」

と訊ねた。もちろん、わたしはマルコが嫌いではなかったので何の迷いもなくその質問に頷くと、サッチや他の隊長たちは大仰に溜息をついて首を振った。そうして口々に、そういう意味じゃない、と言う。じゃあどういう意味なのとお気に入りの酒を飲みながら聞けば、再びサッチがわたしに、例えば怖い夢を見て寝れなくなったとしたら、お前はオヤジの部屋でオヤジと眠るか、と聞いてきたので、わたしは、もちろん寝るわよと声を大にして言いきった。しかし、その答えを聞いて他の隊長が、じゃあマルコの部屋でマルコと眠るかと訊ねた時、わたしは急に言葉に詰まって、静まり返る室内でただ何度か瞬きをすることしかできなかった。心なしか周りの隊長たちがにやついていることに気がつくと、わたしは何だか急に恥ずかしくなって、その部屋を飛び出した。もう、頬が熱くて心臓が高鳴っているのが酒のせいなんかじゃないことくらいは、容易く分かる歳だった。サッチたちの言葉が脳内を反芻するたびに、わたしはマルコが好きだったのだと思い知らされた。それも、オヤジを好きなのとは随分と違うかたちで。甲板に立ち尽くしたまま、一体どうすればいいのかわたしが必死になって考えていると、今度は甲板の上で丸くなって酒を飲んでいる仲間がわたしに声をかけた。見れば、それは火拳のエースで、今度こそわたしは断って逃げようと思った。間違いなくマルコはこの輪の中にいる気がしたし、恐る恐る確認の視線を向ければ、思った通りにわたしの視線はマルコのそれとかち合った。すぐに逸らして、いいよ、わたしはもう寝ると言って不審に思われない程度に足早にその場を去ったが、何だか部屋に戻る気にもなれなくてわたしはそのまま一人で酒を飲みなおすことにした。座って長いこと星を見たり、通り過ぎる仲間に就寝のあいさつをしながら酒を飲んでいると、しばらくしてマルコがわたしのところにやってきた。彼はわたしを見るとだいぶ驚いて立ち止まって、そうして呆れたように、何してんだよい、と呟いた。

「寝れねェのか」

「まあね」

「ふうん...それなのにオヤジの部屋に行かねェなんて、珍しいこともあるもんだよい」

マルコがそう言うと、再びわたしの頭の中に、隊長たちの言葉が蘇った。そっと視線を上げてマルコを見遣れば、彼はアルコールで火照った体を冷ましたいのか、飲んでバカ騒ぎをしたのか、いつも羽織っているシャツを無造作に右肩にかけていた。月明かりの下で初めて見る彼のからだは、少しの無駄もなく、とてもうつくしかった。この時のマルコのからだ以上にうつくしいものを、わたしは未だに見たことがない。わたしは思わず手を伸ばしてマルコの手を掴んだけれど、マルコは何も言わずにただ黙ってわたしへと視線を注いでいた。それは、何かを測るような視線だった。マルコ、とわたしが呟くと、彼は、何だよい、と静かに返した。その声を聞きながら、わたしは数秒、マルコの手を掴んだわたし自身の手を見つめる。そうしてやはりマルコと同じように、自分の中にある何かを測ろうとしていた。そのたった数秒の沈黙の後、片手に持っていた酒瓶を置いて、わたしが黙ってこちらに視線を注いでいたマルコに両腕を伸ばすと、マルコはその腕をとって難なくわたしのからだを抱きあげた。からだがざわめいて、わたしは彼の首に腕をまわして顔をうずめながら、マルコ、ともう一度彼の名前を呼んだ。するとマルコは笑いながら、一丁前におれのこと誘いやがって、と言ってわたしを部屋へと連れて行ってくれる。昔から、オヤジの傍で寝てしまうわたしを部屋まで連れていくのはマルコの役割だったけれども、この時のわたしは彼に寝かしつけて欲しいわけでも、頭を撫でて安心させて欲しいわけでもなかった。酒の力がどこまでわたしを狂わせているのか、それを測るのはとても難しかった。それでも、マルコを見て燻ぶり出すこの炎が、決して幻なんかではないことを確信していたわたしは、部屋へと運んでくれたマルコに抱きかかえられたまま、そっとマルコの頬を両手で包んで、まるで神さまに祈るように、すき、と言った。まだ何の返事も聞いていないのに、涙が溢れては落ちていった。マルコはしばらくの間わたしを見つめていたけれども、不意に確認するようにゆっくりと、

「本気なんだな」

と訊ねるので、わたしは声をあげて泣きたくなるのを堪えて頷く。すると、彼はわたしを抱きとめる腕の片方をわたしの頭に宛がって、そうしてわたしの唇を静かに塞いだ。わたしはマルコの少し熱い体温を感じながら、自分がこれから見知らぬ場所へと向かおうとしていることに気がついて、心臓が破裂するんじゃないかと思うくらいどきどきしていた。わたしをベッドに乗せると、マルコは肩にかけたシャツを床に放り出して慣れたようにわたしの上に覆いかぶさって、もう一度わたしの唇にキスをする。そうして、愛おしそうにわたしを見つめながら、安心しろい、と言って彼は優しく笑ってみせた。マルコはとても丁寧に、そうしてとても熱情的に、わたしのからだを愛してくれたように思う。わたしが怯えると、彼はやんわりと頬や瞼や唇に口付けて、わたしが痛がると、ごめんなと言って悲しそうに謝った。けれども、わたしはそんなマルコが愛おしくて堪らなくなって、結局最後には恐怖も痛みも忘れて彼を求めた。それが、わたしがマルコの傍で眠ったはじめての夜であった。その日からももう幾年か経つが、その素晴らしい夜から今日に至るまで、わたしは変わらずマルコを愛し続けている。そっと瞼を開けると、丁度太陽が良い具合に傾いて美しいオレンジ色に染まっていた。いつものようにオヤジの腹筋の上に寝そべって昼寝をしていたわたしは、むくりと起き上がってオヤジの顔が見える位置まで這いあがる。オヤジは目を閉じたままだったが、起きていることは間違いなかったのでわたしはそのまま声をかけた。

「オヤジ」

「なんだ」

「やっぱりわたし、オヤジのお嫁さんにはなれないや」

「グラララララ...そうか、そりゃあ残念だ」

「でもオヤジのことは死ぬほど好きなのよ」

説得するようにそう言うと、オヤジはかつてそうしたように馬鹿みたいに大笑いした。しかし、昔のようにわたしがそれに拗ねてオヤジから離れることはない。本当なのよと言ってオヤジの首にぎゅうと抱きついて顔をうずめると、オヤジの手が優しくわたしを撫でてくれた。このままもうひと眠りしたいと思ったが、しばらくの間そうしていると、やはりいつものように一番隊長のマルコがやってきてわたしをオヤジの傍から引き離して、仕事をしろよいバカ野郎と叱咤した。オヤジの陰に上手く隠れていたつもりだったのに、どうしてもこの人だけは誤魔化すことができない。マルコに怒られて不貞腐れながら渋々オヤジのもとを離れると、なんだ、まだマルコに勝てねえのか、まったく仕様のねェやつだな、とオヤジがまた盛大に笑った。


















033010
(如何なる時も悲しみは入り込めない、それはしあわせという名の不落の要塞)