触れたら壊れてしまうようなそれは、まるでこの世界のようだと思った。とても早い朝方の、まだ誰一人として足を踏み入れていない食堂の片隅にわたしは、今やこの船の最高責任者となった男が静かに新聞を読み耽っている姿を見た。いつもは陽気な気持ちを運んでくる朝陽でさえ今は無音を彩って煌くばかりで、そこには静寂以外の何ものも入り込めない空気が漂っていた。わたしは扉の前で、綺麗なガラス玉のようなその静寂を壊すのを幾度も躊躇ったけれども、いつか誰かによって壊されるのなら、今わたしが壊してしまおうと決心して、くたびれた木製の扉を静かに押した。扉は古くて軋んだが、思いの外、それは軽やかな音であった。新聞を読み耽っていた男が顔を上げる。そして、なんだ、お前かよい、と言って再び視線を紙面へ戻す。わたしは返事をしようと口を開いたけれども、返す言葉がどうしても見当たらなくてそのまま閉口した。窓から見える朝陽の低さが、わたしからすべての言葉を奪って行った。相変わらず、船内はとても繊細な静寂に包まれている。やっとのことで、わたしは一度だけ彼の名前を口にした。その頃にはわたしはもう、だだ広い空間の片隅に座って新聞を読む男の傍に辿り着いていた。マルコは新聞を食卓の上に置いてわたしを見上げる。なんだよい、と言って草臥れた様に笑う。わたしはその笑みに釣られて笑って、そうして手を伸ばして静かに彼の頬を撫でた。まだ若い女のわたしのそれより彼の頬はずっと肌理が粗くて、そうして撫でる度に顎の辺りの髭がちくちくと指先に刺さる。手のひらに伝わる僅かな皺の感触が、何だかとても心地良かった。マルコは促されるように、頬に宛がったわたしの手に触れる。わたしは彼が壊れてしまわないように、とても気を配って、彼をわたしの腕の中に抱き込んだ。草臥れた彼を朝陽に晒したら、消えてしまうんじゃないかと不安に思って出来るだけ深くわたしの腕の中に押し込める。心地良いシャンプーの匂いが鼻先を掠めて行った。わたしは窓から差し込む朝陽に目を細めながら、押し込まれるがままになっている男の名前を呼んだ。一度目と変わらず彼は、なんだよい、と返して寄越したが、腕の中にいるせいで今度はその笑顔を窺うことは出来ない。或いは、笑顔なんて浮かべていなかったかもしれない。そのままふたりで、しばらくの間黙っていた。誰も起き出してこない。何の音もしない。不意にわたしは、一体わたしたちは何を失ってしまったんだろう、と思った。考えてみれば、わたしたちが失ったものなどひとつもないように思われた。わたしたちには手も足も目も耳も、心臓だってちゃんとある。昨日と変わらずちゃんとある。わたしたちは今日も昨日と変わらず息をして、食事をして、そうして明日のために眠りにつく。確かに先達ての戦争で傷は負ったが、それだってそのうち癒えて痛みさえ思い出せないようになる。そうすると、いくら考えてみてもやはり何一つ、わたしたち自身が失ったものは見当たらなかった。失ったものがないということは本来なら、とてもとても幸せで大変に有り難いことであるはずなのに、なぜだかわたしはその事実に途轍もなく悲しくなった。思わず腕の中にいるマルコをそっと抱き締める。マルコは椅子に座したまま、わたしの腕にやんわりと自身の腕を添えた。そうしてそのまま、わたしに頭を預けながら、「長い人生、大切なものは幾らでもできるし、生きていれば、そのうちの一つや二つ、簡単に失っちまう時だってある。だが、それが自分にとって大切だったことは、何より大切だったことだけは、忘れちゃいけねェんだよい」と溜息のように呟いた。呟くマルコの声音はとても色褪せていて、この世界を包むそれのように酷く脆くて弱弱しいものだった。わたしは眩しすぎる朝陽から目を逸らして、腕の中の彼へと頬を寄せる。そうして、はやく、わたしが壊すことの敵わなかったこの綺麗なガラス玉のような静寂を誰かが壊してくれれば良い、と思った。








プラチナダーク








041910
(かなしみに屈してはならない 負けてはならない どれほど心細かろうとも決して)