昔から動物が好きだったにとって、彼らと会話をする、ないしは意志疎通をすることは長い間夢見てきた奇跡であったので、彼女が死の外科医トラファルガー・ローの船に乗船したその日、生まれて初めて、動いて喋って機敏に動く白い熊を見た時の衝撃は、筆舌に尽くしがたい相当なものだった。なにせ、長年夢見た、しかも一生叶わないと思っていた、光景の到来である。その日から、実に様々な場面ではベポに近付いた。食事時はもちろん、戦闘時、仕事時、休憩の合間。そうして、ほぼ一方的ではあったものの、そんな千載一遇のチャンスを逃すまいとする献身的なの歩み寄りと、ローの恋人という彼の船の上では無敵な肩書きが功を奏し、ベポという名のその熊は今ではにとって何より近しい友人となっていた。そうなった切欠は、確かにからの猛烈なアプローチであったが、しかしベポもが嫌いではなかった。もしかして、人間の女でなかったら、惚れていたかもしれないなと思うこともあった。そんな風に、ベポが人間ではなく動物であったこと、或いはが人間の女であったことで、二人の間には、他者では決して築けない不思議な感情が緩やかに存在していた。それは確実に愛に最も近い場所にあったが、同時に愛から最も遠いかたちをしていた。しかし二人がそれを悔やんだことは一度もない。は何の抵抗もなくベポに寄り添って眠ったり、自身の恋の相談をしたり、時には一緒に風呂に入ったりもした。他の船員は決して許されなかったが、ベポだけは、そうすることをローが許可していた。そうしてローの許可があるならと、人間の裸を見たって何ともないベポが頷いたのだ。礼を言うを前に、ローは薄い笑みを浮かべて、「お前の好きにしろ」と言った。それは冷たいような、温かいような、極めて不思議な表情であった。はそれを思い出す度に、何故だか無性にローを守ってやりたい衝動に駆られた。そうして、これも何故かは分からなかったけれども、非常に愛しい気持ちになった。

その頃から随分と経ったある晩、やはりベポと湯船に浸かりながら、はローがベポとの入浴を許可した日のことを思い出していた。しかし、あの笑みはなんだったのか、あの感情はなんだったのか、いくら考えても合点がいかないことばかりである。そのうち湯船の中で思案することにも飽きて、膝を抱いてその上に顎を乗せたまま、試しにはベポに訊いてみる事にした。すると、そんなこと知らないよ、と言って呆れるかと思った彼は意外にも困ったように頬を掻いて、「そうだなあ」と呟いた。そうしてしばらくの間瞬巡して、「おれが思うに」と前置くと、「キャプテンは、本当はと風呂に入りたいんだと思う」とベポは言った。はそのあまりに頓狂な回答に目を瞠ったけれども、しかし目の前のベポの表情が酷く真面目なそれであったので、黙ってその後も続いた彼の推理を聞くことにした。ちゃぷん、と湯船の水面が揺れる。ベポの声が浴室に木霊する。

「入りたいけど、でも、我慢してるんだよ」
「どうして?」

は思わず尋ねたが、しかしそれに返ってきたのは、丁寧に湯気に包まれた沈黙ひとつきりだった。不審に思ってベポを見遣れば、彼は円らなふたつの瞳を真っ直ぐにこちらへ向けて、そうして少し首を傾げる。真白の毛皮についた滴が、照明に反射してきらきらと光った。

が大事なんじゃないの?」

ベポのその一言が、に何らかの理解をもたらした訳ではなかった。何らかの答えを提示したわけでもなかった。しかし、それでも、その一言がとても大きな意味を持っていることは、どうしても見逃すことの出来ない事実であった。こうなったら、もはや後は直接本人に尋ねるほか方法がない。は一向に理路整然としない思考であったにも関わらず立ち上がって湯船を出る。ベポの気遣わしげな声音に混じって、ちゃぷちゃぷと水面が揺れる音がした。脱衣所に向かって歩む度、ぽたぽたと、いとも容易くの肌を数多の水滴が滑り落ちていく。鮮やかに、炯々と煌いて、水晶のようなそれ。指先から滴が落ちると、途端に、の中で無秩序に散らばっていた思案が一様の体を成した。一瞬にして、ローの表情のことも、の感情のことも、ベポの言葉の意味も、すべてがよく分かる気がした。は乱雑にバスタオルで肌を拭って、シャツを一枚羽織って走り出す。背後のベポの声には、聞こえないふりをした。そうすることに罪悪感がないわけではまるでなかったが、今回ばかりはそれくらい許されるという二人の関係に甘えることにした。夜の船内を駆け抜けて、いつもの寝室の扉を開ける。そこにその姿を認めるより早く、はその名前を呼んでいた。

「ロー」

呼んで、その姿を机の前に認めて、背後で扉の閉まる音を聴く。机の上で緩やかに室内を照らし出す明かりの傍の人物へと歩み寄る。ローはしばらくの間唖然とした表情のままでそれを見つめていたけれども、が自身の傍にやってくる頃にはいつもの冷静さを取り戻して、その非日常的な様子に僅かに眉を顰めた。

「...ベポはどうした」
「置いてきたわ」
「風呂場にか」
「うん」

ローは笑いも怒りもしなかった。しかしまた何かを言い出しそうな素振りを見せたので、は言葉さえも煩わしいようにローの唇を塞ぐ。すると、幾度もそれを繰り返すうちに、ローはを抱き上げてベッドの上へと座らせた。息の乱れたの視線を捉えようとする、その双眸は、そうして酷く医者のそれを思わせた。欲情して俺の大事な船員を風呂場に置いてきたのか、とローは口端を歪めて笑う。指先をの頬に滑らせて、「ん?」と答えをせがむと、は速い呼吸の合間を衝いて、「どうして一緒に入らないの」と呟いた。ローにとって、それは思わぬ問いかけであった。彼が口を噤んで黙っていると、が追い討ちをかけるように、ねえ、と言う。その拍子で、シーツの上に雫が落ちる。ひとつ、ふたつ。の髪の先から滴るそれは、薄暗い部屋の中で真白なシーツに染み付いた。それはどれも、暗闇の色をしていた。は太股の合間のそれを見つめて息をつく。綺麗なものが、いつも綺麗だとは限らないのだと、生まれて初めて知った気がした。首筋に張り付いた髪の一房から、雫が肌を伝って落ちる。ゆるゆると明かりが揺れる。ローは相変わらず沈黙を守っている。彼の呼吸を数えながら、確かに、ローと風呂に入るのと、ベポと風呂に入るのとではだいぶんの差がある、とは思った。ベポは熊だからいいけれど、ローと一緒に風呂なんて入ったら、きっと自分は彼に簡単に欲情してしまう。そうしてそれはきっと、水の中では自由を奪われる彼を、力加減の出来ない彼を、困らせてしまうだろう。そうして恐らくそれこそが、彼が自分と風呂に入りたがらない理由なのだ。しかし、先ほどのベポの言葉を思い出せば、それでもは彼のために一緒に風呂に入りたいと思った。それは、もしかしたら、少女漫画を読んで育った女が傾倒しがちな「愛のための自己犠牲」という愚かしい行為かもしれない。そう考えると、には自身の決断が酷く恐ろしいもののような気がしたけれども、どうしようか迷って視線を上げた先にあったローの双眸を見たら、もうそんなことはどうでも良くなっていた。相手のために自分を束縛するのも、自分のために相手を束縛するのもだめなら、好きだから、欲しい、お互いそれでいいではないか。ローは真っ直ぐにの視線を受け取って、酷く慎重に、「お前の好きにしろ」とだけ音を紡いだ。そうしてがそれに答えるように、「ロー、わたしを、壊してみて」と熱に満ちた声音で呟くと、彼はひとつニヒリスティックに笑って、「本当にお前を壊してしまいそうだ」と息をもらした。ぽたりとシーツに雫が落ちる。緩やかな波の音がうつくしい夜であった。





at the end of my rope.






042510
(but only way you'll know for sure is to jump in with both feet.)