「あれ」

「...何か?」


わたしは抱えた紙袋を僅かに下げて、目の前を通過する人物を穴が開くほどまじまじと見た。しかしいくら眺めたって生身の人間に穴が開くわけなどなく、結局起こったことと言えば紙袋の中から林檎が一つこぼれ落ちるくらいだった。わたしの視線など無視して去ればいいものを、目の前のお人好しはわざわざ腰を屈めて落ちた林檎を拾い、そうしてそれをわたしの抱える紙袋の中にそっと戻す。なんて律儀なやつだ、海賊の癖にと小馬鹿にしていたら、昔患った職業病の後遺症なのか不意に彼は気を付けなさいと言ってわたしの目を見た。かち合った彼の目のその美しいことと言ったら、思わずわたしが紙袋の中身を盛大にぶちまけてしまうほどであった。なんということか。わたしはいそいそと紙袋の中から飛び出していった数々の被害者たちを救い出すべく、そして自らの晒した恥に堪え忍ぶべく迅速に地面に屈み込んだ。出来ればとっとと目の前の男には去って貰いたかったが、しかし如何せん彼は近年希に見るお人好しであったので、もちろんわたしの願いなど聞き届けられるわけがなかった。というか既に彼は微かに笑いながらわたしの側に屈んで熱心に被害者の救出活動に勤しんでいた。笑うくらいなら去ってくれと思ったが、良く良く考えるとこの場に一人残されるのにも相当辛いものがあるなと思って黙っておいた。彼はわたしが生み出した悲劇をまるで無かったように片付けて、あろうことか、


「何なら送りましょうか」


とさえ言った。どこまでお人好しなんだこの男は、と思いながら、しかしその好意に甘えてみたい気もするわたしはもう完全に人間として終了間近であるに違いない。きっと団地妻とはこんな気分に苛まれる妻たちのことだろうと変な感慨に耽りながらもわたしは彼から紙袋を引っ手繰って、結構よ、と言った。


「あたしが帰る場所に来たら、あなたが帰れなくなるわよディエス・ドレーク」

「ほう、私の名前を知ってるのか」

「バカね、同業者なんだから当然でしょう?」


わたしがそう言ってにやにやと笑うと、彼は酷く驚いたように目を瞠って、そうかと静かに視線を落とした。喧騒に混じって、空の高いところで絶えずシャボン玉の割れる音がする。ドレークのマントが風にはためいて、差し込む日差しが彼の鍛え上げた肉体を照らしたり照らさなかったりした。逞しい、とはこういう体つきのことを言うんだろう。そう思ったら、わたしの中にある女としての本能が酷く揺らいだ。貞操を守りなさいとか世間体を気にしなさいとかそういったことが無ければ抱かれてみたいとさえ思った。いけないことに手を伸ばしてみたくなるのは一体どういう人間の神秘なのか、是非とも科学者たちには一度語り合って貰いたい。ともかく、このままドレークの向かいにいたら自分の心がどんどん手に負えなくなりそうで、気がつくとわたしは一目散に駆け出していた。走りながら、わたしは心の中に丁寧に仕舞ってある天秤を引っ張り出して、まるで理科の実験の如き真面目さで幾度もドレークを秤にかけた。しかし、彼がローという名の錘より深く沈むことは一度も無かった。


「あれ、だ」

「...」

「ロー」

「なんだ」


わたしが自分の所属する海賊団の下に戻ってきて開口一番に船長兼船医兼わたしの恋人である男の名前を呼んで、持っていた荷物を迷わず傍にいたベポに押し付けると、ベポは迷わず空気を読んで人払いをしながらその場を去っていった。それを横目に見ながら、わたしはじっと目の前で木箱に座る男を眺める。そうしてもう一度心の中に丁寧に仕舞ってある天秤を引っ張り出して、ドレークとローを秤にかけた。恐らくは世界で一、二を争うくらいやってはいかん贅沢な比較であることは重々承知している。さらに、くそ野郎とかこのメスブタが、と海賊に憧れる全世界の女子たちがわたしを嬲るであろうことも。




「あ」


わたしはローに呼ばれて急いで意識を彼に戻した。かち合った、いつもの帽子の下からじっとわたしを見詰める彼の双眸は、酷く閑かで凪いでいた。そのせいか、先程までの全力疾走で乱れた呼吸も、ドレークとの出会いで乱れた心の平穏も、わたしは思いのほか早く取り戻していた。ローの傍に一歩寄って、じっと彼を見る。初めて出会った日のこと、怒られて泣いたときのこと、愛された数々の夜のこと。或いは、彼の色んな顔を見て、彼と色んな時間を過ごしてきたこと。彼を見る度、いつも色んなことを思い出す。こちらをじっと見つめてくる男と見つめ合いながら、そんな当たり前の事実を、わたしは改めて目の当たりにしたような気がした。


「ローが重たいのは思い出の分なのね」

「何の話だ一体...」


状況を完全に把握できない居心地の悪さに眉根を寄せたローの隣に腰掛けて、わたしは一言、何でもないわと呟いた。ディエス・ドレークの話よ、と言うこともできたが、言わなかった。彼を目の前にしてこれ以上他の男について考えることは出来ない気がした。いや、考えることそれ自体は、きっとどこまでも可能だった。考えたくなかっただけだ。それはもちろん、わざわざ答えなくてもいい時に恋人の目の前で他の男の名前を易々と口にするほどわたしが馬鹿な女ではない、ということもあったが、しかし同時に、わたしの中にだってまだ手付かずの純粋さが埋もれているに違いない、と信じたかったせいでもあった。わたしは確かに悪人と呼ばれる彼のように残虐性に富んだ人間ではなかったけれども、それでも時々、果たしてわたしは自分が願うほどに善人で純粋で、自らの根柢を知るような生き物であっただろうかと不安に駆られた。ローは本質的な部分で、実に己に忠順である。決して嘘をつかないで生きることも、自らを取り繕わずに真っ直ぐに人の目を見ることも、そういう男だからこそ出来るのだ。わたしはふと、黙って道行く人々を眺めているローに視線を向けた。瞬きの度に彼の長い長い冬の夜のような色の睫毛が緩やかに揺れる。天から差し込む木洩れ日に、彼の両耳のピアスが燦然と輝く。金色に輝くそれは、かつてパリスが授かった黄金の林檎と同じ色をしていた。風が吹いて、海の上では聞き慣れない葉擦れの音がわたしとローの頭上を賑わす。


「ロー」


名前を呼ばれて、ローは静かにわたしをその視界に入れる。何を言うつもりで声をかけたのか自分でもさっぱり判らなかったが、しかし、あの真摯な視線に射抜かれてわたしは、ああ、きっとこれから自分は彼の審判にかけられるのだと思った。


「ディエス・ドレークに会ったよ」

「ドレーク屋に?」


僅かに双眸を細めて尋ねる彼に瞬き一つで返事をする。まるで懺悔をするように、告解をするように、わたしは精一杯の愛情と誠意と緊張を以てローを見つめ返した。ローは完全に目の前を行き交う人々へ向き合うことをやめて真っ直ぐにわたしを見ている。


「驚いたわ」

「なんで」

「もしもあなたとの思い出がなかったら、もしもあなたと出会うのが遅かったら、わたしはきっとドレークと恋をしていた、と思ったから」


わたしは馬鹿だ、阿呆だ、その点においては恐らく他の追随など決して許さないだろう、とその一瞬に、わたしは思った。わざわざ言う必要などない、と分かっていたことを、どうして言ってしまったのか。こちらを黙って見ている彼に告げたことは確かに嘘ではなかったけれども、しかし同時にそれは全く言う必要のない真実であった。わたしが一瞬の狂気に、それこそ提示された賄賂に唆されたパリス本人のように、身を委ねてしまったことを一心不乱に後悔していると、目の前で僅かに喉を鳴らしてローが笑った。彼はニヒルな笑みを口端に浮かべながら、「それで、思い出の重さを引いたらどっちが勝つんだ?」と言って面白そうに帽子の下からわたしを覗き込んでいた。瞬きの度に彼の長い長い冬の夜のような色の睫毛が緩やかに揺れる。天から差し込む木洩れ日に、彼の両耳のピアスが燦然と輝く。金色に輝くそれは、かつてパリスが授かった黄金の林檎と同じ色をしていた。ああ、今度こそ、てめえは引っ込んでろとか年の数だけ雷に打たれて死んじまえ、と海賊に憧れる全世界の女子たちがこぞってわたしを嬲るに違いない。

















05312010
(memories aren't the reason and you should have known that before I told you.)