深い眠りのせいか当人の気配りのせいか、玄関のドアが開く音には全く気が付かなかった。階段を上がる音にもシャワーを浴びる音にもだ。しかし、何の因果か不意に外で鳴いた梟の声に目が覚めたので、結局わたしは今が真夜中の三時であること、そしていつの間にか帰ってきていた男がシャワーを浴び終えて一つドアを隔てた向こうにいることを知った。しかし、得た情報はそれだけではない。普段は仕事が終わればそのまま帰ってくるか、或いは全く帰ってこないか、というような男がこの中途半端な時間帯に帰ってくる"正当な"理由をも、わたしは疾うに知ってしまっていた。それには苛立つ必要も、不安になる理由も、悲しくなる意味もなかったが、わたしは知らぬ間にぐしゃぐしゃに握り潰した己の心が寄越す痛みを飲み込んで、ベッドの中に深々と潜り込んだ。息を潜めて、瞼を閉じて、寝た振りをしながらただひたすらに一刻も早い睡魔の再来を願う。しかしこんなストレスを抱えた状態で易々と眠りに就けるわけもなく、結局わたしは彼とわたし自身を隔てていた木の板一枚が、静かに軋む音を耳にした。それから間もなく自分の横たわるベッドが軋んで沈むのを感じて、わたしはいよいよ先ほど飲み込んだ痛みが体内を駆け巡って増長し始めるのを自覚する。シャンプーの匂いに隠れてアルコールの匂いがする。随分近くにまで寄られたものだ。触られていないのに、男の体温が伝わるような気がした。



ゆっくりと、たった一つの名前だけが彼によって紡がれてその存在を許される。深く被った布団の中でその音を聴きながら、しかしわたしは指先一つ動かさない。それどころか、彼の呼び掛けには睫毛一本揺れはしなかったはずである。とはいえもちろん、布団が邪魔をして彼にはその様子は見えないので、彼はわたしがわざわざ深々と被った布団をそっと退かしてわたしの偽物の寝顔を眺めて、もう一度、わたしの名前を呼んだ。一度目のそれも、二度目のそれも、少し掠れたとても静かな音だった。いつものように返事をしてやりたいとは思うものの、わたしは今度もやはり、ただ只管に、まるで人形のような無反応という反応に徹した。そうでもしなければ、きっと彼を責めてしまうだろう、大人になりきれないわたしはきっと、彼を傷付けてしまうだろう、と思ったのだ。だからこそ今のわたしには、それ以外の反応は許されなかった。そうしてそれは限りなく完璧に近い正論であるように思われた。暗闇に冷やされた沈黙が漂う寝室で、浅く小さいわたしの呼吸に、彼の大きく緩やかな呼吸が重なり合う。規則的な秒針の音が僅かの狂いなく世界をまわしている。わたしは瞼越しに感じる暗闇を味わいながら、一体朝はあとどれくらいでこの暗闇を食い尽くすだろう、と酷く不毛な問いかけを繰り返した。すると、不意にベッドがぎしりと再び音を上げて微かに揺れる。瞼を閉じていて正確には分からなかったが、彼は布団に潜り込みもせずに、わたしの傍で横になったようであった。わたしの腕とは比べ物にならないほど逞しい彼の腕が、布団の上からわたしを抱えるようにして置かれている。彼は決してわたしを抱きしめて眠ったりはしなかったが、いつもこうしてわたしの上に片腕を預けた。言えば腕枕をしてくれる時もあった。そのいつもの心地好い重みを感じながらようやくわたしがうとうとしはじめると、彼は一度だけ、がさついた指先でわたしの頬を撫でる。待ち望んだ睡魔に呑まれ、ついに静寂だけが、朝に喰われるのを待つばかりの暗闇の中に取り残された。ああ、

「おやすみ」

朝が来て、目が覚めたら、きっと一番におかえりと言おう。






掌の中で溶ける





062110
(その愛の色は透明)