ずきん、と鈍い痛みが走り抜けた。いつもなら鮮やかに薫る潮風が、今日は酷く鋭利な刃物のようにわたしの肌を撫ぜていく。わたしはぐっと胸元でシャツを掴んで、そろそろとまっさらな空が真夏の陽射しを容赦なく注ぎ込む世界の下へと躍り出た。陽射しは熱くてじりじりとわたしの体温をあげるようであったが、それでも湿気がない分さほどの不快感は感じない。ただ、吹き抜ける風がずきずきと鈍い痛みを呼び起こして嫌気が差した。ざあ、と青い海が一際愉快に歌いだす。痛みが踊る。やはり船内に戻ったほうが好いかも知れない。背中に嫌な汗を感じながらそう思うと同時に、やや離れた甲板の上から聴き馴染んだ音でわたしを呼ぶ声がした。それは真っ白な毛皮が涼しそうでもあり暑そうでもある熊、ベポの声であった。振り返ってみれば、こちらに手を振るベポを始めとする他の数名の仲間がローの許に集まっている。彼らが何をしているのかを一目で窺い知る事は難しかったが、今は彼らが何を話し込んでいたかなどという数十メートル先のことなどどうでも良かった。わたしは吹き付ける潮風に勝手に苛立ちを覚えながら、痛みを堪えてベポに手を振る。すると、ベポは何やらローへとおもむろに視線をやって、そうして僅かに頷いた。それと同時に、壁に凭れていたローがゆっくりと歩き出す。もちろん、その足が向かう先はわたしの立つ場所だ。ああ、まずいな、とわたしは瞬時に思ったが、しかしその時点ですでにわたしには何らの打つ手も切り札も秘策も残されてはいなかった。在るのは鈍い痛みと、潮風に対する僅かの苛立ちと、背中を伝う冷ややかな汗の一筋だけである。


「見せてみろ」


わたしにあと数歩で触れられる距離まで辿り着くと、ローは何の前触れも無くそう言った。空から降り注ぐ陽射しなど物ともしない平然とした表情が、彼の帽子の下から窺える。彼の耳元では引っ切り無しにピアスが光を反射して煌いていたにも関わらず、わたしは彼の酷く静かで温度の無い双眸に全ての意識を奪われて、全くそちらを見ることは出来なかった。わたしがその双眸に対しての返答に詰まっていると、ローはひとつの瞬きと共にさっさと数歩の距離を埋めてしまう。そうして、わたしが身を引くよりもずっと早く、彼はわたしの手を退けて少々乱暴な方法でシャツのボタンを開けた。軽やかな音を立てて、ボタンの幾つかが甲板の上に転がる。陽に晒されたわたしの肌はすぐに熱を帯びた。しかし、わたしの肌がそうして熱を持ったのは何も夏の陽射しに晒されたからだけではないことにも、わたしは容易に気が付いた。ローはわたしのシャツの前立ての部分を無造作に掴んだまま、静かにわたしの体を見つめている。ベポや他の船員も未だに元の場所からわたしとローのやり取りを見守っている。わたしはローによって体を覆う物を持たなくなったけれども、それでもローの背が、彼らからその事実の一切を覆い隠していた。ざあ、と海が揺れる。潮風が何の遠慮も無く傷口を舐めていく。心臓が跳ね上がる。わたしは必死に悲鳴を噛み殺した。


「なんで言わなかった?」

「だって」

「治ると思ったのか」


半ば蔑むようなローの声音が鮮やかな青い世界に溶けていく。わたしは痛みに緩む涙腺を自覚しながら、それでも涙を堪えて口を噤んだ。なぜなら彼の言葉は、真実だったからだ。わたしは確かに、今、彼の目の前に晒しているこの傷を自力で治すことが可能だと思っていた。それに傷を見せたところで、放っておいても治る、と言われるのが関の山だろう、と勝手に思い込んでもいた。ローは不意にわたしの腕を掴んで、船内へと向かう。その間、ぎりぎりと掴まれ痛む腕に眉を顰めながら、わたしはまたしても抗う術を何一つ持たなかった。彼はコツコツと靴の音を響かせながら手術用の部屋に入ると、すぐにわたしを手術台の上に押し付ける。その時点ですでに、わたしが着ていたシャツは何の意味も持たなくなっていた。傷口も、肌も、痛みに浮かんだ玉のような汗も、すべてが彼の双眸の前に晒された。ローは慣れた様子で両手を消毒して傷口に触れる準備を済ませると、今度こそ容赦なくわたしの痛みを抉り出した。それは潮風や陽射しなんかとは比較にならない遠慮の無さであった。わたしは耐えられずに悲鳴を上げる。悲鳴を上げたその拍子に双眸から涙が零れる。しかし、ローは治療中一度もその手を止めることはなかった。そうして純粋な痛み以外、麻酔もなにも与えられないまま、わたしは手術台の上で彼の治療を受けた。治療は極めて強い痛みを伴うものであったが、それでもそれが終わってみれば、傷それ自体の痛みは治療前よりも随分と和らいでいた。荒い息を繰り返しながら、わたしは涙の乾かぬ双眸で瞬きをする。散々だった、と思った。何て扱いの仕方だ、とも思った。多少の、それこそ潮風に対するそれの二倍くらいの苛立ちもあった。しかし、治療に使った道具が片付けられる間も、ローが汚れた服を脱ぎ捨てる間も、彼が手術台の上に跨って酷く静かな、或いは酷くぎらついた双眸でわたしを見つめる間も、わたしのからだは彼への愛情だけに支配されていた。


「痛ェか」

「.....麻酔くらい、してよ」


ローの温かな掌がわたしの頬を包み込んで、やんわりと撫でる。わたしが荒い息を繰り返しながら彼を見つめると、彼はニヒリスティックな笑みを口端に浮かべて、ふふ、と笑った。


「麻酔なんていらねェはずだろう。お前、おれに触られて感じなかったことがあるのか?」


ぎし、と手術台が軋む。ローは相変わらず静かな双眸でわたしを見下ろしている。わたしは乾かない涙を双眸に湛えたまま口を開いた。なぜなら彼の言葉は、紛れもない真実だったからだ。わたしは確かに、幾度も幾度も痛みと共に触れてくる彼の手を愛しく思っていた。それに今回麻酔をしなかったことは、彼の選んだ最善の選択であったのかもしれないと勝手に思い込んでもいた。


「...ないわ...そっちは?」

「ないな」


静かにそう告げた、服を脱ぎ捨てたままその上半身を晒しているローの肌が、柔らかに光に照らされている。呼吸の度に微かに上下するその様子を、もっとよく見ていたくて瞬きをすると、双眸に湛えられていた涙が一筋垂れて落ちていった。ローがその掌をわたしのむき出しの腹の上へ滑らせる。わたしは再度、今度は燃え盛るこのからだを彼が食い尽くしてくれる喜びに声を上げた。













062210
(and be careful, there's no doggy bag here)