世界屈指の造船会社ガレーラカンパニーには、世界中どこを探しても二人といない逸材の船大工達、そして政府にだって居やしないであろう程の敏腕職員達が揃っている。そのガレーラカンパニーに在籍する逸材の一人であるカクは、秋風が心地好い昼下がりに、忙しなく行き交う従業員の間を縫って本社二階の廊下を歩いていた。社内に五人しかいない職長という地位を持つ彼はその力量によって(そして恐らくはその容貌も手伝って)広く顔が知れていたので、彼が誰かと擦れ違う度に、廊下には様々なトーンの挨拶が飛ぶ。それらに軽く手を挙げたり、うむと短く返したりするうちに、ふとカクは目先から見慣れた顔立ちの女が一人やって来るのに気がついた。それはガレーラカンパニーきっての敏腕(だが話によるとさすがに社長秘書には負けるらしい)社員、そして同時に、カクの恋人であるであったが、ロビーに向かって歩いてゆく彼女は酷く苛立った様子で、周囲への挨拶もそこそこにカクの横を黙ってすり抜けていく。擦れ違い様にちらとカクを見た彼女は無言のうちに「話し掛けたら八つ当たりするわよ」とだけ示して寄越したので、カクはその忠告に従って開きかけた口を噤んで、一言も口を利かずに、くるりと踵を返しての後をついてゆくことにした。ロビーへの階段を降りた辺りでは再び何か言いたそうに振り返ったけれども、カクはそれにさっと自身が持っていた書類を掲げて難を逃れた。それはの許に判を貰いに行く予定だった書類だ。案の定、それを目視したはそのままくるりと前を向いて再び歩き出す。カクは小さく息を吐いた。何があったか知らないが、無用の恨みなど真っ平御免だ。ロビーに出ると、はカツンというヒールの音を残して立ち止まる。もちろん、カクも何事かと内心ビクビクしながら立ち止まったが、しかしの視線の先に、何やら如何わしげな男が立っていることに気がついて目の色が変わる。


「あなたね。さっきからうちの船に言い掛かりをつけているのは。どこの弱小会社の人かしら」

「言い掛かりなんかじゃない、本当のことだ。ここの船は大したことない...ただ、ブランド品だから値が張ってもみんな買うのさ」

「それは言い掛かりじゃ」

「んん?...ああ、知ってるぞ、お前、大工職職長だろう。鉋で木を削るだけの職長なのに随分」

「...黙りなさい」


それはゾッとするくらい閑かで冥い声音であった。どこぞの会社員の逆恨みを軽く流そうとしたカクは、はっとして数歩前に立っていたへと視線を向ける。そうして、わしは大丈夫じゃ、気にしておらん、そう言い掛けたけれども、彼のその声は一瞬の存在も許されることなくすぐに掻き消された。


「うちの職人達を、馬鹿にすんじゃないわよ!」


の怒声で、一気にロビーに緊張が走る。ピリピリと空気が揺れて、思わずカクは唖然として動きを止める。しかし、周囲を行き交う社員が何事かと恐る恐る、或いはの発言を後押しするように、此方に視線を寄越してくるのが痛いほどよく分かって、カクはすぐに気を取り直した。自分まで圧されている場合ではない。


「いかん、落ち着け」

「出ていきなさい」

「こんな場所、言われなくても出ていくさ。居るだけで吐き気がする」

「ふ」


ふざけんな、そう言って一歩も二歩も或いは三歩も踏み出そうとしたの前に、ついにカクは立ちはだかる。彼女の視界を覆い隠すように背を向けたまま、男が出ていくのを待っているカクの後ろで、は小さく唇を噛んだ。悔しさに、苛立ちに、涙が出そうになる。何にも知らない癖に。この会社の職人たちが雨の日も雪の日も炎天下でさえも、一所懸命に仕事をしていること。どんなに疲れていても、予定があっても、必要とあらば笑いながら残業を引き受けること。損得なんて考えない。みんな、船が好きだという想いそれひとつだけで、毎日毎日、朝から晩まで働いている。毎日傍で見ているから、よく分かる。それなのに、その純粋な想いを、彼らの意地と誇りを、土足で踏み荒らされるのを、どうしてわたしは黙って見ていることしか出来ないんだ。確かにわたしの中には怒りがあるというのに、出てくるのは悔しさゆえの涙ばかりで、それがまた悔しくて悔しくて、自分の無力さに打ちのめされる。


「カク...どいて...」

「ダメじゃ」

「どいてよ...」

「ダメじゃ、お前さんの綺麗な涙をあんな男に見せるわけにはいかん」


カクの背中は、男が本社を去ったあとも少しも揺らがなかった。いつもの白い帽子を深く被って、オレンジ色のナイロンブルゾンを着て、じっと立つ、その後ろ姿からは彼のどんな表情も感情も思想も窺うことはできない。それでも、は苦笑いを浮かべて深呼吸をした。カクの背中を見て幾分か冷静になったのだろう、溢れていた涙も、いまは睫毛に残るのみになっている。感情に振り回されるのはここまでだ。わたしはわたしで、誰にも譲れない誇りを持ってこの仕事をしている。


「いいの、もう、泣いてない」


そっとカクの背中に手を当ててがそう呟くと、カクはそれを確認するように、僅かに後ろを振り返った。そうしてそのまま、今度はいつもの笑顔で踵を返す。


「ようし、じゃあ、の事務室まで、戻るかの」

「カク」

「んん」

「ありがとう」

「いい、いい。ああ、じゃが、もしかしてこれでもう少し資材の予算を」

「ダメよ」

「わはは、そりゃあ残念じゃわい」









光路








090809