美しい夕陽が沈む回廊だった。
誰の気配もしないその場所で、わたしはどうしてもどうしても成し遂げたいことのために、必死に同僚に許可を求めていた。しかし、相手の返事は芳しくない。

「それには上の許可が必要なのよ」
「上の許可?メフィストの許可が必要ってこと」
「違うわ、彼の上よ」
「メフィストの上?」

訝しむわたしの目の前で、

「彼の兄」

そう言って笑った女が誰だったかを、思い出せない。そもそもわたしは何をするために許可を貰いたかったのかさえ、欠片も思い出すことが出来なかった。ただ、それが酷く大事なことであったことは覚えている。風も、匂いも、日差しの暑さもないその場所で、同僚らしい女は再び笑って、

「彼の兄に会わせてあげる」

と言った。必死だったわたしは咄嗟に頷いたけれども、でも出来るなら、メフィストの許可が欲しい、と思った。何故だか、この女に付いていくことも、彼の兄に会うことも、わたし一人ではとても心細い気がした。わたしにとって、メフィストはわたしを守ってくれる唯一の砦のような存在だった。

「寝てるわ」

その後、わたしを連れた同僚の女がどこかの部屋へ辿り着くなりそう言うので、わたしは思わず息を呑んだ。無理を言って許可を貰いに来たというのに、その上相手の安眠を妨げるなど言語道断である。しかし、女は何の気兼ねもなしに暗い部屋へ入っていく。

「いらっしゃいよ」
「でも」
「ほら、」

わたしを部屋へと引きずり込んだ女は暗闇で、酷く艶かしい笑みを浮かべてメフィストの兄の傍に横たわった。メフィストの兄らしき人は、メフィストよりもずっと暗い、漆黒のような髪をしていた。顔は、見えない。それでも、何となく、ああこの人もただの人間ではないな、と思った。女が用心深く観察するわたしを見て笑う。彼女はその指先で、柔らかな漆黒の髪を梳いていた。なんだか嫌な感じだと、わたしは思った。なぜかは分からなかったが、それはどこか、嫉妬心にも近かったような気がする。

「あ」

不意に視界の奥、メフィストの兄が眠るその隣で僅かな動きを視認したわたしは、その正体に思わず声を上げた。そこに居たのは、わたしがこの場に居てくれたならと思ってやまなかった、メフィストその人であった。彼はいつものように浴衣をだらしなく着崩して睡眠を貪っている。伏せられた睫毛に、襟の合間から覗く、緩く上下する胸元。睡眠時間など一時間取るか取らないかのほとんど眠らない身体を持つ彼が眠る姿は、わたしにとって酷く新鮮なものだった。やはり、わたしが好きなのは、わたしのすぐ傍で眠る兄の方なんかではなく、メフィストの方だ。そう思って再び視線を同僚の女に戻すと、彼女は薄く笑んで、メフィストの兄に深く口付けした。何がどうなっているのか、もはや全く理解できなかったが、それでも、わたしの心はざわついて大きく揺れた。兄も欲しい、と思う自分に、わたしは酷く戸惑ったが、同時に「いけないこと」をする楽しさをも覚えていた。いつの間にか、許可を取るための訪問が、色恋沙汰の問題へと変化していた。





「メフィスト」
「おや、おはようございます」

今朝は早いですね、といつもの執務机の上で朝食を摂りながらメフィストは大した感動も抑揚もなしに言う。わたしは言われて初めて、時間という概念を思い出して時計を見遣る。午前五時。朝陽も上るか上らないかの時間である。

「こんな時間に朝食?」
「夜食です」

朝食は朝八時に食べます。そう言って椅子の背に凭れかかったメフィストは、ゆっくりとわたしを眺め回して、小首を傾げた。それに合わせて、肩に触れた髪が緩やかに揺れる。わたしは思わず、それに釘付けになる。フラッシュバックするのは、柔らかな漆黒の髪。彼の兄だという存在の、美しい髪の色。

「ねえ」
「はい?」
「あんた、お兄さんいるの?」

わたしはどこか後ろめたい心地でその問いを口にした。脳が麻痺したみたいに、繰り返し同じ光景に囚われる。あの女は結局誰だったのか?メフィストの兄だというあの人物は、一体何者なのか?考えれば考えるほど、突き詰めようとすればするほど、妙に甘美なその感覚を忘れていくような気がして嫌なのに、それでも執着することをやめられない。

、聞いてますか?」

メフィストの声にはっとして意識を戻すと、彼は少しばかり不機嫌そうにしている以外は先程と変わらず椅子に座していた。

「ごめん、聞いてなかった」
「だから、私に兄は居ませんよ」

自分で問いかけてきたくせに答えを聞き逃したわたしを呆れたように眺めながら、メフィストは一つ深く溜息をつく。ペリドットの美しい双眸がわたしを見据えると、わたしは何もかも見透かされてしまうような気になって思わず視線を下へ落とした。何も悪いことなどしていないはずなのに、罪悪感に心がざわついて、落ち着かない。わたしが罪悪感を覚える理由は何故だか分からないが、原因が何かなら、分かっている。だから消えて欲しい、と思った。あの訳の分からない女も、兄だというあの男も。消えないのなら、消せないのなら、消して欲しい、と思った。

「メフィスト」
「何かあったのでしょう、話くらい聞きますからそこにお座りなさい」

わたしの声を受けて椅子から立ち上がりかけたメフィストを、執務机を乗り越えて強引に押し戻す。唇を塞いで、そのまま椅子に座す彼の上に馬乗りになる。閉じた瞼の向こうで、朝陽の生まれる気配がする。わたしが幾度か貪るように口付けを繰り返した後、息継ぎのために唇を離すと、メフィストの双眸が僅かにぎらつきを見せていた。

「話なんて聞かなくていいわ」

荒い息のまま、もう一度噛み付くように口付ける。積極的に応じるメフィストにその意思があることを確認して、羽織っていたシャツを脱ぎ捨てると、再び例の光景が脳裏をよぎった。苦い木の実でも齧ったかのような後を引く不快感が募る。ぐい、とメフィストに腰を引かれて、そのまま机の上に押し倒されてもその心地は消えなかったが、それでもあの不可解な女が、メフィストに触れなくて良かった、とわたしは心底嬉しく思った。







(ベーゼ、ベーゼ、そしてベーゼ)

092611