例えばもしもわたしがわたしでなかったら。例えばもしも、わたしが運命の人だと信じ込んだ相手と出会っていなかったら。いや、或いは、この人こそと一人の男を盲目的に信じ込むほど、わたしがわたしを信じ切っていなかったら。夢見る乙女では、なかったら。

「おや、ちゃん」
「え」

見上げれば、それは人懐こい笑顔が特徴的な呉服屋の小母さんであった。少々お節介なところもあるが、いつも何かと声をかけてくれる、優しい人だ。

「浮かない顔だねえ、何か悩み事かい?」
「ううん、何でもない」

心配そうに顔を覗き込んでくる小母さんに明るく微笑んで言い、はあくまで好意的に、しかし逃げるように早々にその場を後にする。いつもならば多少の世間話には付き合うけれども、今はどうしても、そんな愉快な立ち話をする気にはなれなかった。青葉の香りのする涼しい風を頬に受けて、つらつらと通りを歩く。つらつら歩いて、溜息をつく。真っさらな青空に照らされる城下町は今日もとても賑やかだった。しゃら、と髪飾りが揺れる音がやけに響いて、は驚きとともに立ち止まる。ふと視線を上げると、そこには見慣れたひとりの男が立っていた。

「ここに居やがったか」

口調こそ荒々しいけれども、こちらに向けられるその表情は僅かに笑みを形作っている。それは、いつもならば嬉しいはずの光景。しかしは何故だか酷く狼狽する自分に驚いて、しばらくの間じっと、彼、つまり、伊達軍副将の男、片倉小十郎をただただ見上げてばかりいた。そうして、ああ、後ろめたいとは、きっとこのことなのだろう、とはひとつ瞬きをする。息をする度に、懐に仕舞った、一枚の手紙がじわりと熱を持つ気がした。

てめえ....何か、あったな?」
「え?いやだ、別に、何も、ないわよ」
「まるでそうは見えねえが」

余裕の滲む笑みを薄く浮かべたままで、の瞳を覗き込む。そうしてすぐに、小十郎は微かに双眸を細めた。目の前の女は最初こそ何とかいつものように視線を合わせていたけれども、どうやらそれはやせ我慢であったようで、今は遠慮がちに視線を逸らしている。隠し事か、嘘か、何にしろ突き詰めなければならないと瞬時に小十郎は思った。しかし、まずはゆっくりと話を聞こうと腹に決める。恐らくは、彼女にとっても本意ではない何かが自分から視線を逸らさせている原因なのであろうことが、酷く心細そうな目の前の女の様子からよく分かったからである。沈黙した二人を余所に、賑やかな喧騒が一つ向こうの通りから絶え間なく聞こえてくる。じわじわと蝉が鳴く声がした。小十郎はぐいとを一度だけ引き寄せて、お世辞にも丁寧とは言えない様で頭を撫でる。

「何があったかは知らねえが、あんまり一人で抱え込むんじゃねえ」

ただ一言だけそう呟いて、すぐにを離した小十郎が照りつける日差しに背を向けると、の上にそろりと影が滑り落ちた。小十郎の声はとてもやさしい響きで、そうっとの喉元を撫でて消えて行く。きっとこの声音だけを聞いていたら、誰も、彼が龍の右目と言われる豪傑だとは思わないだろう。静かに瞬きをしてが今一度視線を上げると、かち合った男の双眸はしっかりとを見つめていた。その気になれば、この戦乱の世の情勢を大きく傾けることができるほどの先見の明を持つ男が、今は、何でもないただひとりの女だけに向けられている。それが、どんなに稀で、有難いことであるか。は小さく拳を握り締めた。そのことを誰よりもよく知って大切にしようとしていたのは、自分のはずだったのに。

「小十....景綱」
「ん?」

いつもの呼び名ではない、正式な名前でが目の前の男を呼ぶことは、そう多くない。ひとつ大きく呼吸をして、は懐から手紙を取り出した。上品な色合いの紙が陽射しの下に晒される。綺麗な紙には、丁寧な字で、 殿と宛名が記してある。

「手紙を戴きました」
「手紙?」
「商家の青年から」
「そいつは、まさか」
「......手紙には、私に対する彼の気持ちが、丁寧に綴られています」

小十郎は苦々しい気持ちを隠すこともなくその表情を曇らせた。ただ沈黙する小十郎の前で、は再び視線を落とす。農民に、いや、若い娘たちに持て囃される小十郎を、はいつも複雑な気持ちで見つめていた。彼が女性に言い寄られることは決して少なくなかったし、頬を染めて彼を見つめる女性となれば、その数はもはや数えることすら不可能に近い。しかし、その逆は、まるで一度も、なかったのだ。どうしていいのか、頓と分からない。分かるはずが、ない。は一度区切った言葉をどう続けてよいのか分からずに、ついに完全に口を噤んだ。辺りを包む喧騒に、溶けて隠れてしまいたいと思ったけれども、不意に己の手が小十郎の袖口を掴んでいることに気が付いて顔を上げる。小十郎は、まだ複雑な表情のままで、を見つめていた。

「小十郎?」
、おめえはどうしたい」
「え」
「...何、頓狂な顔をしてやがる。今更俺がどうこう言う必要はねえだろう。俺の気持ちを、おめえはもう十分知ってるはずだ」
「.......わたし、は」

小十郎の静かな声に、は言い掛けた言葉を止めて視線を彷徨わせたけれども、それは先程のような後ろめたさからではなく、ただ、思案するための所為であった。わたしは。わたしは、どうしたい。視線の先に、鮮やかな手紙がちらつく。恐らくわたしは、二者の間で、迷っているのではない。決断するか、しないか、その二択で、腹を決めかねているのだ。しかし、もしもそうであるなら。きっともう答えは出ている。はそっと、親しい青年から贈られた手紙を丁寧に懐に仕舞った。僅かに、小十郎がその眼を細める、は手紙を仕舞ったその手で、ぐいと目の前の男の背中に手を回す。小十郎の腕の中に飛び込んで、ようやくは本当に答えに辿り着いた気がした。例えばもしもわたしがわたしでなかったら。例えばもしも、わたしが運命の人だと信じ込んだ相手と出会っていなかったら。いや、或いは、この人こそと一人の男を盲目的に信じ込むほど、わたしがわたしを信じ切っていなかったら。夢見る乙女では、なかったら。そうしたら、きっと、現状は違っていただろう。しかし、今ここにいるわたしは、紛れもなくわたし自身だ。運命の人と信じた相手とは疾うの昔に出会っていて、おまけにその人間を盲目的に信じ、そう思う己を信じ、極めつけに、夢を見ない乙女など存在しないとも思っている。

「わたしは小十郎が、好き」

ぽつりぽつりと確かめるように呟くを、小十郎はただじっと見守った。とくんとくんと忙しない鼓動が、飛び込んできたから絶えず小十郎へと伝わってくる。

「.......違うわね、あなただけが好きなのよ、景綱」

それ以外は、いつか違う世界で、違う未来で、起こる出来事。じわじわと鳴く蝉の声が、何もかもが静止したかのような瞬間に、止まることのない時間を教えてくれる。結局、小難しそうに眉根を寄せて最初の言葉に少しの修正を加えただけで、の告解はあっさりと終了した。ようやく、そっと小十郎がの背に腕を回す。酷く満たされた心地でが小十郎を見上げると、小十郎は降参したかのように溜息交じりに苦笑した。

「こいつは有難えことだな」
「お互いさまよ」
「腹ァ括っとけ」

















081209
(他では決して味わえないこの人生)