暑すぎるのは天気のせいか、彼女の大将である男の愛情表現の残した熱のせいか、それは分からないがは目を醒ましてすぐにまた朝が来たと思った。それは決して前向きな姿勢を示す感情ではなく、かといってずっとずっと後ろ向きな姿勢を示す宣言でもない。ただ、ああ、また、新しい日なのだと思うだけで、あとは緩やかに感じる浅瀬の波の揺れに身を任せて、は遠く聞こえる潮騒と海鳥の声に目を閉じた。そうしてしばらくすると不意にギィと軋んだ音を立てて扉が開かれ、それと同時に恐ろしく静まり返った世界が流れ込む。酷く緊迫した空気がの夢うつつな意識を完全に覚醒させると、扉を開けた張本人はまだ布団の中に居るの傍にどかりと座った。


「おう、目ェ覚ましたか?」

「…夫より遅く起きるなんて全国の女の人に怒られちゃうわね」

「ハハハ!別に構いやしねえよ、お前はただの嫁じゃねえ…鬼が頭を下げて 貰った嫁だぜ?」


誰も文句は言わねえさ。そう言って元親は上半身を起こしたを眺め 防具を外したその手で頬に触れながら、改めて湧き上がる愛情の奥に潜む本能的な欲望を満たす時間があったなら、と思った。女というものは権力や武力など力と名の付くものをほとんど持たない生き物だが、それでも今日までにこんなに多くの女が生きているのは恐らくその生まれ持っての魔性的ななにかのせいに違いない。魔性的といっては聞こえが悪いかもしれないが 不運にもあまり語彙力に富んでいない以上は他に言いようがない。とにかく、そういった力一般をすべて所有できないかわりに、女はそれを持つ男を魅了したり愛しいと思わせたり その結果男を本質的に変えたりできるから恐ろしい。事実、女一人のせいで国が傾くことなど、昔からよくある話で大して驚くことではない。


「俺もお前に食われちまうのかもしれねえなあ」

「は?」

「いや、何でもねえ」


そう言ってどこか遠くを眺めるような元親に、は微かに居心地の悪さを感じた。しばらくの沈黙に息をつめる。距離感を感じずにはいられないその瞬間に、ああ、悲しみとはこのことだ、とは僅かに俯いた。確かに互いに強く愛し合っているのに、それなのにどこかで歯車がかみ合わない。合わせようとすれども 歯車の狂いが見つからない。泣いて済むなら泣きたい、と思うがしかしそれは何の解決法にもならないことを承知しているから泣かない。ふと自分の肌の表面が冷えていることに気が付いて奇妙な感じがした。外が騒がしくなる。元親は音もなく瞬きをして外していた防具を宛がったが、しかしそれ以上は先に急ぐ様子も見せず、ただ変わらず総大将としての貫禄を湛えた落ち着きぶりでの傍に座っている。


「……まあ、いいけど、」

「…、……ここから出るなよ」

「…巻き込む気ね、わたしを、男どもの喧嘩に」

「すまねえ」

「いいのよ、あなたが生きて帰ってきてくれればね 弥三郎」

「弥三郎、か 懐かしいな、あの頃にはあまり良い思い出はねえが お前にその名で呼ばれても何故か嫌な気はしねえ」


若かりし頃は弥三郎、現在は元親、と呼ばれる男は腰を上げるとにもう一度先ほどの忠告を念押ししてその部屋を後にし、は布団を出て着替え、言われたようにその部屋の真ん中で静かに時を待つ。元親が部屋を後にしてから戦が熱を帯びてくるまでにそう時間は掛からず、暑い中むさ苦しい男たちが己の命を賭け合って喧嘩している音のみが絶えずの耳に流れ込んだ。もう潮騒の音も海鳥の声も聞こえず、微かな浅瀬の波の揺れさえも感じられない。人は何でも壊してしまうのだ。女は男を、男は世界を、そうして人のみならず世界さえわたしたちを 壊そうとする。暑いな、とが持っていた扇で軽く扇ぐと、ふとそれとは別の風が頬を滑り 同時に外の音が大きくなった気がした。


「アニキ!敵武将がアニキの部屋に侵入したとの報告あり!」

「ちィ…野郎共!すまねえが ちょいとばかしここを頼むぜ!」

「おうよ、アニキ!安心して行ってきな!」


船へと駆け戻る中、元親は果たしてこれが正しい行動であるのか疑問に思った。自分も、数多の男たちのように女というものに惑わされているのではないか。どうしてかそういう思いが頭から離れず、との間にも距離が生じてしまっていることを元親は密かに恐れた。その距離の原因が天下を目指す己の身を案じ過ぎている点にあるのか、ただ愛した女に裏切られるのが恐ろしいという点にあるのか、それは分からない。ただ、自分たちは行き先が決まっているのに風が吹かずに先に進めない船のようだと元親は思った。


「おや、まさか長曾我部殿がこんな所にこんな大事なものを隠していたとは」


見慣れない厳つい顔がを眺め、重たそうな音を鳴らして部屋に上がりこむ。彼が歩いた床の上には赤い跡が転々とついていて、何故だかはふと元親と共にした夜を思い出した。愛しすぎて恋しすぎて眩暈がした夜。


「……意外で御座りますか」

「船に女は不吉、そうではないのか?それのみでは飽き足らずに戦にまで女とは甚だめでたいヤツよ」

「昼夜問わずに年がら年中 馬鹿の一つ覚えの如く戦しかしない男はみなめでたいやつと わたくしは心得ておりまする」

「…口の減らない女め、今にその口二度と利けぬようにしてやる だが」


強く顎を掴まれて、至近距離にある男の顔をは眉一つ動かさずに見つめた。凪いだ海のように静まり返った心は明らかに元親に対するものとは違っている。元親の愛情が青く澄んだ空や海のようであるとすれば、この武将のそれは赤茶色く錆びた刀のようだ。人の心を動かすこともできなければ使うこともできない。


「そのまえに、男がするのは戦だけではないことを教えてやろう」


男の息が荒いのは戦の所為でも暑さの所為でもないだろうとは思いながら、己の心臓も早鐘のようになっていることに気が付いて腹が冷えた。わたしは力も権力もなく、今もされるがまま床に押し付けられる事しか出来ないただのおんなだ。果たして本当に男をどうにかすることなどできるのだろうか。武家育ちであるから刀の扱いはそれなりに知っているが、相手は一年中戦しかしないような男だ。きっと一枚も二枚も上だろう。ならば、普通に戦って敵わないなら、チャンスは 今しかない。今、男が女の身体というものに夢中になってる間。は首元を滑る男の唇にぞくりと背筋が反って不甲斐なさに唇をかんだ。しかしそれは男を大いに喜ばせ、は無意識に男を惚れさせていく。ついに男が刀を床に置いての衣服を脱がしにかかったが しかし チャンスを得たがそれ以上この男に望むものを与えることはなかった。何事かと男が刀を掴もうとすればそこにも望むものはなく、代わりに自身の腹に刀が埋まっていることを武将はこの時やっと理解した。低く太い呻き声のする中で、は強く眉根を寄せる。ぬるぬるとした肉を割って滑る刃物は存外重たい。


「…こんな…ことが」

「失礼ですが殿、この鬼ヶ島は油断大敵の地に御座ります」


どうと倒れた武将の横へ、は居住まいを正して座りそう告げる。心臓は興奮のあまりに高鳴り、周りの状況は上手くつかめない。ただ、不思議と敵が一人たりとも切り込んでくることがないのが救いだった。そのの目の前、男の腹から直立した刀は荒く上下しながらギラギラと容赦なく太陽の光を跳ね返して煌いている。そこへ不意に光を遮って飛び込むものがあり は一瞬心臓が止まるほど驚いた。


!」

「元親」

「無事か!?」


部屋に飛び込んできたのは鮮やかな紫を纏った見慣れた男で、ようやくは胸に手を当てて今まで潜めていた息を吐き出す。強く双眸を瞑ってが落ち着きを取り戻そうと試みる中、死に絶えてゆく男が呟いた最期の言葉に、元親の心臓がどくりと揺れた。まるで呪いのように黒く渦巻いて、それは体の奥に沈んでいく。


「長曾我部…おまえも いづれ 食われようぞ…」

「……、」

「可笑しなことを」

「…なに?」


「たとえもし本当に女が男を食おうとも、女が食うのは惚れさせた男だけ、惚れた男は食いませぬ」



それよりも食うとか食わないとか、人を食べ物のように扱うなんて戦場に居すぎではございませんか、は口元を緩めてそう告げて、もう既に事切れている男に頭を下げた。元親はただ呆然としてその姿を眺める。なぜかずっと今まで気付かなかったが、自分が彼女を好いているように、も自分を好いてくれていたのだ。自分がただ一方的に愛して妻にしたのではなく、晴れて夫婦になったのは双方の努力や想いが導いた結果であったことを、あろう事か天下統一に目が眩んで忘れていた。すまない、としか言いようがない。何かが距離感を生んでいると思っていた原因のものは、他でもない、自分自身の中にあったのだ。


「悪かった」

「わたしが あなたを食うかもしれない?」


立ち上がって、は元親の前を通り過ぎる。外ではもう勝敗が決し、敵軍の姿はほとんど見えなくなっていた。暑い。元親に名前を呼ばれて振り返ると、は一度思い切り元親の頬を引っ叩いた。元親は避けることなど容易いそれを、微動だにせず受け入れる。彼女の怒りを受け止めることも、愚かだった自分を戒めることも、どちらも必要なことだと彼は思った。


「目が覚めましたか、長曾我部殿」

「…ああ」

「……まったく鬼の名が聞いて呆れるわ」


は武将を刺した時の固まりきらない血が付いた手を眺めて、視線を空へと向ける。そうして小さく微笑んだ。歯車の狂いはきっと治る。そんな気がした。


「元親」

「あん?」

「食われないようにね」

「惚れた男は食わねえんだろ?」


隣に立って笑い、元親は腰を屈めて静かにの唇を塞いだ。鮮やかな青が唇を伝って心臓を染める。
風が吹く度に波が揺れるのを感じながら、は遠く聞こえる潮騒と海鳥の声に目を閉じた。








090807
(信頼を生む努力は一人ではできない)