久しぶりの日本語の朝のニュース番組はやけに耳に残る。そういえばこんな感じだったなと思いながら、画面に映るコメンテーターやゲストをちらりと見やれば、こんな人いたっけ、と思う顔が8割、ああ、いたなあ、と思う顔が2割。全国のお天気予報が流れるのを眺めながら食後のコーヒーを静かなリビングで啜り、は差し込む日差しに釣られて一度窓の外に目をやった。木々の緑が鮮やかに日差しを受けて揺れる、大層綺麗な朝だった。ひと月くらい前、同じような穏やかな朝に、私はこの先の人生を誰と過ごすかを決めた。テレビを消して、テーブルに無造作に置いていたスマホを手に取って、ロック画面を解除する。何の迷いもなくチャットアプリを開いて受話器のボタンを押下する。鳴り始めたリングバックトーンが2秒ほど響いたのち、前触れもなく途切れる。

「Rise and shine、スタンリー」

ここ数年の間、おそらく誰よりも呼んだ名前を口にする。ちらりと壁にかけられた時計を確認する。向こうは今、前日の夕方頃。ふと、視線をリビングの壁際の棚へと向けて、は小さく口元を緩めた。アカシアの木で丁寧に作られた棚の上に、見慣れた男と共に映る自分の写真がある。自分が生まれ育った家の中心に、家族以外の人間と映る自分の写真が飾られているのは不思議な心地がした。味わったことのない感覚が少しくすぐったい。

「分かってて時差で遊んでんだろ、
「よかった、まだ繋がって」
「ちょうど着替えんのに家帰ってきたとこだよ どうした」
「…何となく声、聴きたくて」
「…へえ」

電波に変換されたしばしの沈黙が互いの周りに満ちていく。は一度、手元にあるカップを口元に運んでコーヒーの残りを飲み込んだ。出会ってから、何度この声を聴いたんだろう。最初は温度もなくて、冬の海みたいな音だったことを辛うじて覚えている。それが今は、直接でも、通話越しでも、どんなに離れても、見えなくても、わたしの心を温めてくれる。そんな奇跡がこの世にあることも、そんな奇跡が起こることも、夢でさえ思い描いたことがなかった。すでに自分以外は外出してしまった静かな家の中で、カチリ、カチリ、と時計の音がする。はこのタイミングで帰省することになったきっかけを思い出す。いつも通り、朝日が芸術のように美しく差し込む休日の朝だった。目覚めたわたしにコーヒーを持ってきたスタンリーがとても優しくわたしの名前を呼んだ。それは私たちにとって習慣となった行動だったが、その日わたしはうたた寝の曖昧な意識の中ですら、彼以上に美しく丁寧にわたしの名前を紡ぐ人を知らない、と思った。きっともうこれ以上には出会うこともないんだろう、とも思った。起きな、と言って頬を撫でる彼の手を掴んで、習慣のままベッドに身を起こすと、いつもと違ってわたしを下から見上げる彼のトパーズの瞳に釘付けにされた。彼はとても真摯な双眸で寝起きのわたしを見つめていた。揺れる木陰の下で煌めく彼のトパーズの瞳は、真冬に満点の星空を眺める人々の、喜びと僅かの願いを抱いた瞳にとてもよく似ていた。そうして片膝をついた彼が、ひとつの瞬きの後そっとわたしの頬を撫でてとても簡素な求婚をした。それはその日、わたしが起きてから最初に聞いた言葉だった。あっという間に涙で滲む視界の中、寝起きに刺激が強すぎる、と震える声で言って、絶対に離すまいとぎゅうと彼の手を握ったことを、覚えている。あの時、早朝の朝日を受けて落ちる涙と明確な返事を欲しがる彼の声以外に、私たちの寝室には時計の秒針だけが鳴り響いていた。

、何かあったんじゃねえよな」
「何もないよ、今日の夜には飛行機乗る 噂の天才科学少年にもこれから会う予定 燕の件もあるし」
「それはさっきチャットで見た 知ってんよ 結婚の話はしたのか」

んん、と微かに鼻濁音を鳴らして、父は改めてちょっとゴネてたけど、と返すと、通話口の向こうで僅かの緊張が生まれる。ああ、ビデオ通話にすればよかった、と胸中で少しばかり後悔しながら、は今現在のスタンリーの表情を知り得ないことをひどく勿体なく思った。こちらの言葉の続きを静かに待つスタンリーはまだ知らない。やがて妻になるという女の実家のリビングに、彼自身の写った写真が飾られていることを。そしてその家で生まれ育った娘であるは知っていた。父親が本当に反対する気なら、この家にそんなものが飾られるはずがないことを。

「まあ、娘を嫁にやる男親の取らねばならぬポーズなのかもね そうじゃなかったらあれかな、スタン、特殊部隊の軍人だしヘビースモーカーだし…あ、母は大喜びで久々にスタンに直に会えるのかなり楽しみにしてるよ」
「…早めに挨拶行く 調整すんよ」
「スタン、もし父さんに殴られたらちゃんとダメージ入ったふりしてよね」

はスタンリーに冗談3割本気7割で釘を刺す。途端に電話口で柔い笑いが薄く滲んで、オーケー分かった、と了解を示す音が耳馴染み良く聞こえてくる。まあ、彼が殴られそうになったらわたしが我慢できず咄嗟に前に出るなり父に怒鳴り散らすなりしそうだが、とはひとり、数千キロ先の、まだ昨日を生きている男を想いながら己の身の振りを想像した。

「気ィつけて帰ってきな 空港で待ってる」

にとって、スタンリーと離れて過ごすことは、その長さや理由に関わらずやはり寂しいものだった。しかし、離れた日々から彼の元に戻る時、あるいは、彼がの元に戻る時、いつだって自分を迎えて抱き留めてくれる彼の腕の中の暖かさをは知っている。双眸と口元を和らげて、、と名前を呼ぶだけで、それ以外は何も言わず強く抱きしめる彼の瞳の柔らかさを知っている。彼のそのたった一つの行動が、わたしにどれほどの寂しさをも許容させてしまうことを、果たして彼は知っているんだろうか、とは僅かに疑問に思った。不意に指先に生まれる鋭利な光の反射に目を細め、手元に視線を落とす。

「あ、ねえ、今日ピナクルズ国立公園のレセプションでしょ?晩餐会用礼装着てるよね?写真送ってね ゼノにも言っとかなきゃ」
「いんねえだろ…」
「あなたは何を言ってんの?絶対要るんだが?」

呆れた声音の向こうで、衣擦れの音がする。おそらく着替えている途中なのだろう。不要だというスタンリーの声に間髪入れずに反論するは、その口調と反して愉快そうな声音で言葉を紡いだ。軍制服も、普段着も、部屋着も、礼装も、彼が着るなら何だって見たいに決まっている。が、そんなことピラミッドの壁画にだって書いてある、と重ねて強調すると、意味分かんねえ、と言ってついにスタンリーは喉を鳴らして愉快そうに笑った。

「いんねぇよ、帰ってきたら好きなだけ実物を拝みな」
「…、…お土産楽しみにしてて」
「現金な女」
「本当はわたしも出席すべきだったんだろうけど……ああ、わたしもそろそろ家出なくちゃ またあとで、って…時差で無理か」
「時間はいい」

さすが特殊部隊を束ねる男、と言えば、慣れてっかんね、と軽い返しが戻ってくる。スタンリーは立場的にも実力的にも、世界最強クラスの軍人たちを率いる男だった。金銭的損得など微塵もないことは重々承知の上で、それでも見方を変えれば世界で最も高価な安心を無償で享受していることを、はよく理解しているつもりだ。それに加えて、世界で最も強く愛しいこの男から、得難い無償の愛を注がれている。だから先日、片膝をついた彼の柔く嬉しそうなトパーズの双眸を眺めながら、このとんでもない贅沢の対価を、この先の人生全てで彼に与えていくと改めて心に誓ったのだ。

「じゃあ、またあとで ゼノによろしく」
「早く行きな ……、愛してんよ」

歌うように何の迷いもなく紡がれるその一言に、は口元を緩めて瞬きひとつ分の沈黙を返した。欧米で暮らせば特によく聞く4レターの言葉。生涯消えないほど深い意味を持つ時も、風に吹かれて飛ぶように軽い時もある、おそらく世界で最も使い古されたその言葉を、スタンリーは一度も軽く扱ったことがない。そもそも、数える程度しか使わない。先程与えられた別れの挨拶のそれでさえ、口にする時はこの世のラブソングが怯えるほどの本気だった。はそれを大切に仕舞うように丁寧に瞬きをする。一つ、二つ、と心臓の音が鳴る。別れの挨拶をしたはずのスタンリーはその間、まるでがどんな様子か知っていると言わんばかりに、電話を切る気配がない。

「…………ほんと、あなたって欧米人ね」
「欧米人と結婚すんなら慣れな」
「………愛してる、スタンリー」

貴方が望むなら幾らでも与えるわ、と言って少しだけ面映さを含んだその音が西側の未来から届くと、14時間ほど過去にいる男は満足そうに小さく笑った。







やがて訪れる束の間の永遠
02.07.26